「お前もがんばれよ」――順応労働と、分析労働

三脇康生氏との電話のメモ*1。 決定的モチーフが整理できたと感じている。

  • ラカン派は、労働を過程として論じることができない。 ジジェクが労働を論じても、ヘーゲルにしかならない。 結果(作品)についてあれこれ論じることはできても、制作するプロセスの事情を何も語れない。 ラカニアンとしてひきこもりを扱う斎藤環は、なんとか労働を語ろうとしているが、表象分析に淫する知的態度からいって原理的に無理。 ラカン派の語る労働は、政治性を去勢された労働であり(みずからが従っている制度*2への分析的介入は最初から禁忌されている)、分析過程という労働の政治性を論じることがない(労働過程を論じる労働過程、というモチーフがない)。 ラカン派の分析は、メタな適合として知的にのみ提示され、その分析結果が作られる過程にどんな疎外があり得るのか*3、まったく問われない。 私はただ「ラカン派的結果」を目指して取り組むしかなく、結果が得られたときには端的にナルシシズムを許可され、学派のナルシシズムが分析されない。
  • ジミー大西の「お前もがんばれよ」というのは、見下されて「がんばれよ」と言われた側が「言った側」の事情を突いている。 ここには、役割固定に対する抵抗と、「お前はお前の事情を自分で考えろ」という、制度分析のニュアンスがある。 ▼ルーチンをこなすことしかできない精神科医に、「がんばってくださいね」と言われたら、「お前もがんばれよ」(制度分析しろよ)。 自分の役割を順応主義的に信じて疑わないことが、かえって臨床的に悪く機能するかもしれないのに(参照)。
  • 制度分析同士の出会いの場所*4がなく、順応主義しかないなら、そこには必ずごまかしがある。 無理にでも順応するしか知らない者は*5、みずからの中に湧いてしまう制度分析的な亀裂が周囲の怒りを買うことに気づいてしまい、自分の知性の動き自身を怖がるようになる。 周囲の環境の中の「気づいてしまった痛み」、腫れ物のような自分。 ヒリヒリと覚醒が痛む。 疼痛を抱える強迫的順応者は、制度分析をしないナルシストたちの社会に参加できない*6
  • ひきこもる人は基本的に順応主義と激発*7の往復しか知らず、社会復帰しても強迫的な順応主義者以外になかなかなれない。 その順応主義は、周囲に対しては威圧的な振る舞いになり得る。(私は、ひきこもり経験者の強圧的な順応主義に繰り返し腹を立てている。本人たち自身が制度分析を自分に許さないままに、順応主義のナルシシズム以外を示せなくなっている。)
  • ひきこもっている人に、賃労働という意味での労働をさせようとすることは、単に「順応しろ」でしかないが、「制度分析という労働をしてくれ」というのは、家族であれば関係者の一人としての正当な要望であり*8、また臨床上も意味のある提言に思える。 「無賃労働としての制度分析からやってみたらどうですか」。 制度分析は、今の社会に欠けた労働といえる。 ひきこもる人が家事労働やアルバイトを無理にするのは、自分の置かれた「状況=制度」*9への分析をせず、「働いているんだ」というアリバイに逃げ込んでいる姿とも取れる。(元気な社会人は、アリバイ調達のルーチンに乗っている。)
  • 無賃労働としての制度分析に自分の場所で取り組んでみて、そのうえで「働けよ」と言われたら、「お前も働けよ(制度分析しろよ)」と言い返してみるのが、単なるギャグにとどまらない含蓄を持ち得る。 制度分析が機能しない場所での労働は、強迫的な制度順応でしかない。




*1:私ひとりでは絶対に作り出せない内容だが、私の側の理解と主張でしかない。

*2:精神分析の概念やパス(passe)など、「精神分析」という制度自身。 「ラカン理論を使ってどう政治を分析するか」ではなく、「ラカン理論そのものはどのような政治性を持っているか」と論じなければならない。ラカン理論自身の政治的性格。 ▼東浩紀は、「精神分析の歴史的性格」を述べるが、そう語る東浩紀自身への制度分析(場所としての自分自身への分析)は為されない。 「自分のことは語らない」「抽象的なデカイ話をする」といった方針が、自意識に淫する状況への批評的介入であると同時に、場所としての自分自身(知的プロセスや関係構築のあり方)への分析を回避するアリバイになっており、そのナルシシズムにはタッチできないことになってしまう。(しかし『存在論的、郵便的』は、制度分析的な試みとして本当に見事だった。) ▼ロールズなどを参照してメタ的な「正義」を語る人たちは、みずからの順応的ナルシシズムを分析しない。 難解なリベラリズムを論じた後で、ぐだぐだのナルシスト談義をしていたりする。

*3:「制作過程の疎外」については、ジャン・ウリが論じているらしい。

*4:ガタリが「自由の新たな空間」と言ったのはこういう事情らしい。三脇康生なら「凪(なぎ)」などと呼んでいる。 ▼三脇康生経由のドゥルーズ/ガタリは、80年代から見知っている現代思想論とまったく風景が違う。

*5:過労死の恐怖がずっとついてまわる

*6:左翼反体制のイデオロギーは、それ自体が順応主義的従順さを要求してくる。

*7:無力な激発は順応主義のままだ。 制度を分析し、「制度を使う」方向に向かわなければ。

*8:家族と本人の関係を調整する中仕切り。 これをしなければ、ひきこもる人は家族を順応主義の中に監禁することになる。

*9:家族制度だけでなく、労働や文化の事情など、さまざまなレベル