【追記】: 表象に閉じる斎藤環の「ブログ=デッサン」論

はてブコメントにて id:mn_kr さんよりご指摘のあった、斎藤環『メディアは存在しない』該当箇所を参照してみます*1(強調は引用者)。

 ここで参照されるのは、赤間啓之氏による奇妙な著作『デッサンする身体』である。 (略) 赤間氏は、バルザックの短編『知られざる傑作』から、主人公フレンホーフェルの言葉「デッサンなんてものは存在しない」を、しきりにとりあげる。 彼は理想の絵画を完成させるという不可能な欲望に取り憑かれ、同じカンヴァス上で無数のデッサンを上書きし、解体しつづけるのだ。 不在の中心をめぐる欲望をもつ者が、デッサンの存在不可能性を指摘するのは、いかにも似つかわしい振る舞いではある。 斎藤環メディアは存在しない』p.138)

否定神学的な信仰対象への漸近線としてのデッサン。 以前の私の自傷行為的な当事者的ひきこもり論は、こういう構図に嵌まり込んでいることを自覚できていなかったと思います。


斎藤環id:pentaxx)氏は、単独で行われる祈りの試行錯誤のようなデッサンではなく、ネットワークに点在するアクセスポイント(ノード)としての「ブログ=デッサン」という理解を示されています。

 対象を固定志向的な象徴論から開放し、むしろ何ものも象徴しない、さまざまな意味を各ノードに分散処理させたネットワークと考えるなら、デッサンもまたネットワークとして捉えることができる。 その基底をなすマティエール*2は、一種のインフォサーキット*3と、その各断面としてのデッサンである。 言い換えるならデッサンは、ネットワーク上でデータ転送が「落ち」るところに出現する。 (略)
 赤間氏が指摘するように、デッサンだけが二項対立間の逆転や否定性を免れた「回収されない肯定性」の痕跡であり、それが完成形としての「人間」に漸近する過程で無限に増殖する人間ではない身体=動物を指し示すというのなら、ネットワーク=メディアについても、同様のことが指摘可能であるのかもしれない。
 それというのも、Blog こそはデッサンにほかならないからだ。
 つまり、「書籍」あるいは「テキスト・アーカイヴ」を完成した絵画作品になぞらえるなら、Blog こそは、永遠の未完成形として増殖を続ける知的デッサンにほかならない。 (略) 彼らが志向しているのはむしろ、すっかり母胎的なイメージが定着した「サイバー空間」において、みずからの言説が無限のネットワークにおいて定位され解釈され、さらには欲望されることではないか。 トラックバックやコメント、あるいは「はてなダイアリーキーワード」などといった Blog の諸機能は、そのためにこそ存在するのだ。 斎藤環メディアは存在しない』p.138-140)



ここでの斎藤氏は、「デッサン」という制作過程を論じながら、それを表象分析の枠内に閉じ込めようとしているように見えます。 ご自分はあくまでメタレベルに定位しながら、「ブログ=デッサン」という制作過程を “事後的に” 論じています。 斎藤氏の論じる作業は表象のメタ帝国に閉じ、「作る・論じる」というプロセス自体がモチーフになりません。


デッサンを、「ネットワーク上でデータ転送が “落ち” るところ」と表現しているのは、主体の実存的リキミを軽やかにスルーしていて小気味よく見えますが、論じている対象であるデッサンの処理過程そのものへの批評的介入はなされず、同時に、それを論じる斎藤氏自身の「論じる」という制作過程も、批評的介入を拒絶しています。


斎藤氏の「ブログ=デッサン」論は、あくまで表象の世界に閉じこもっており、制作過程を論じているのに、それが氏の臨床論と何の関係も持っていません。 《制作する》という決定的な臨床契機(プロセス)を論じるなら、その批評的介入そのものが臨床行為であり、また論じる作業が斎藤氏自身にとっての臨床的恩恵になっていなければ、読み手の側も、ナルシシズムを解体する臨床過程になりません。 ナルシシズムを解体したくてデッサンをし、ブログを書き、本を読むのに、斎藤環の文章は読めば読むほど表象分析のナルシシズムに閉じ込められていくのです。


多くの人がナルシシズムを満たすためにブログ=デッサンをやるとしても、それを単に分析してみせるだけでは、「うまくできた分析」を提示するナルシシズムをほかの人と共有するだけです。そうではなくて、批評行為を通じて、斎藤氏自身がみずから正しいと信じる制作過程を実演しなければ、内在的=臨床的に機能する批評的分析は、提示できない*4。 現状の斎藤氏においては、批評のポリシーが臨床に内在化されておらず、批評の取り組みに、臨床的取り組みがありません。 ▼私にとってはブログはデッサンでありつつ、その成果は次の分析の素材(マティエール)であり、そのような徹底した分析を継続させていくところにしか、ひきこもりの臨床を考えることができなくなっています。 ナルシシズムの母胎にたゆたう方向には、かえって不自由をしか見ていません。 斎藤氏が提示した「胸を張って脛をかじれ」というスローガンには、みずからの想像的身体*5を切り刻む分析をデッサンと見なし、そこに批評的に介入することで関係を再構築する方向が、まるで見えない。自分で自分を肯定するナルシシズムを直接的に肯定される安心感を得たあとに、しかしそれはどんな根拠を持ち得るのでしょうか。不当な自己肯定のまま制作過程を表象に閉じ込め、自意識を安楽死させるのでしょうか。それは自意識を不自由にしている方向性をそのまま温存することであり、私には窒息と感じられます。 【多くの引きこもり経験者は、斎藤さんのその方向を歓迎し、同意するのでしょうけれど。それは、まさにイマジネールな勘違いではないのでしょうか。その想像的勘違いを「臨床上必要な隔離」として認めたあとで、斎藤さんはどこへ向かうおつもりなのでしょうか*6。 理論と現場を単に切り分け*7、現場や関係性そのものに機能している理論(役割固定)をこそ分析・解体しないのであれば、自意識は表象に閉じ込められたままになると思います。】



*1:未読でした。ご指摘ありがとうございます。

*2:「matière」。フランス語で、「物質」「原料・画材」「題材」などの意味。

*3:「info-circuit」、つまり「情報の回路」。 ラカン派の「シニフィアンのネットワーク」を連想させる。情報が断片ではなく、ネットワークとして理解されている。【デリダラカン論(および東浩紀デリダ論)は、そこを批判していた。】

*4:労働過程として、またその成果として

*5:それは、身近な人間との関係のことでもある

*6:隔離された後の着手がどうであるのかが、まったく分かりません。むしろ、隔離されたと見える場所において、すでに外部社会と同じロジックと態度が機能し始めるべきではないでしょうか。隔離された場所は、外部社会で試されるべき方法論の実験室(胚胎場所)でこそなければ、そのあとに来るのは単なる順応主義か、別格的過保護かでしかないと思います。

*7:「理論は過激に、臨床は素朴に」(『ひきこもりはなぜ「治る」のか?―精神分析的アプローチ (シリーズCura)』あとがき)