左派の文脈にある精神分析や脱構築には、論じる自分を検証するスタンスがあったはず。つまり論じる自分にはメタレベルがありつつ、論じられる自分は対象(オブジェクト)レベルにもある。「自分はどのような実情にあり、どのように構築されているのか」――そこにはメタとオブジェクトの重なり合いがある。私にはそういうスタンスが必要だったし、だから私はその文脈への信頼において "当事者" 云々の話に身を投じた。
しかしこれは勘違いだった。左派が精神分析や脱構築の話をするのはそれによって自分が周囲を威圧するメタに立つためであり、自分を分析対象として(素材として)差し出す行為ではなかった。自己分析のお題目を真に受けて本当に自分を素材として出してしまった私は、端的にオブジェクトレベルに監禁され、そこから出られなくなった。「ひきこもり」はもとより差別対象であり、分析や自己検証のコミュニティが成立しないなら私は単に被差別民として見下され廃棄されることになる。そういうことが実際に起こった。
反差別を標榜する人はその言説で無条件のメタに居座りたいだけであり、それは被差別民をオブジェクトとして囲い込む姿勢に重なる。*1
*1:反差別を標榜する左派がしつこく差別発言を繰り返すのはこれ。彼らは自分がメタにいると勘違いしており、相手を安易にオブジェクト化する。この概念操作の根幹が差別的なのだ。