動態化と労働過程

静止画像であることにおいて、全員が誰かにとってのファシスト*1。 そこから常に分析を再起動させ、動態化をこそ目指す。
私は以前、「ひきこもり支援においては、結果的にファシストが生まれても容認すべきだ」と書いた(参照)。 ファシズムへの順応であっても、それは《社会化》には違いないから。 しかし、それはそう論じている私自身が、「多様性肯定」のナルシシズムに酔っていただけではないか。 私たちは、《自由》を求めるというよりは、お互いの関係への動態化をこそ目指すべきではないか。 関係の硬直(順応強制)は、これ以上ないほど苦痛だ。


静止画像的な多様性肯定は、アリバイでしかない*2。 静止画像としての自分を輝かせること*3は、自分のアリバイを得ただけで動態化していない。 ▼宮台真司の議論は、静態的な輝きだけを求めていて、動態化ではない。 彼の自他への動機づけは、結果的な静止画像だけを目指している。 そこには空しさしかない。 それゆえ「結果」を宗教的に輝かせることに没頭する。


多様性肯定としての正義ではなく、動態化としての正義をもたらさないと。 それは労働過程の問題だ*4。 臨床としての「動態化させること」は、労働過程の課題となっている。 ▼徹底して労働過程を問題にする。 「状況の問題化」自体が労働過程であり、メタ的内容の正誤ではなく、具体的取り組みとして動態化に成功していなければ労働過程として正義であることに失敗している。 自分が動態化することと同時に、他者を動態化する*5。 動態化は、必然的に内容の豊饒化となってゆく*6。 貧困な動態化は、動態化になっていない。 硬直したルーチンと気合主義が反復されているだけ。


数学者は結果としての静止画像(論理的な構築物)を目指している。 結果的な生産物*7を神秘化させようとする努力は、一部才能のある人に許され、期待される。


誰かが業績を作るために静止画像(生産物)を人に押し付ける。 そこで相手はそれに取り組む労働過程に閉じ込められる。 何かを楽しむプロセスは、労働過程に閉じ込められることでもある*8。 動態化が生じていればそれはプロセスとして「楽しい」ということになる。 分量そのものというよりは動態化のちからと素材の関係。



【追記】

    • 私がここで「労働過程」と言っているのは、資本や市場との関係に置かれた労働だけでなく、一人でいるときの「意識のプロセス」そのものでもある。 意識のプロセスを、「労働過程」と見ること(それがうまく組織できない*9)。 ここで問題にしているのは、いわば「労働過程の問題として語られる、政治的精神病理学*10であり、その分析プロセス自身が臨床過程としての労働過程になる。そのような過程は、もちろん単体だけで取り上げるわけにはいかない。 労働過程として、それは周囲や環境との関係の中にある。
    • ヘーゲル精神現象学では、概念の自己運動が「精神の労働」として語られる(参照)。 私はここで、唯物論的な精神活動のプロセスそのものを、政治的緊張に引き裂かれた労働過程として考えている。




*1:もちろん私自身も。 メタ的アリバイで「ファシストであること」が逃れられるのではなく、プロセスの問題だ。

*2:「自分は多様性を肯定しているんだ」というナルシシズム

*3:商品として「売れる」こと

*4:すぐれた生産物が現在を活性化させると同時に、《動態化》はそれ自体が労働過程だ。

*5:正誤よりは「動態/静態」が対比させられるべき。――ここにこそファシズムの問題がある。 動態化を拒否する怠慢(制度分析の拒否)は、自他への暴力であり得る。

*6:内容の端的な誤りは、静態化でしかない。

*7:数式や芸術作品

*8:ex.つまらないゲームや映画に取り組む作業

*9:参照:「自分が流されていく気がして恐い

*10:三脇康生参照して別の言い方をすれば、「労働としての意識過程そのものを、政治的文化人類学の目で見る」とでもなろうか。ここで考えているのは、まさに制度分析のことだ。