「分節過程を中心化する」という核心部分

全員が制度順応しか考えていない、ゆえにのっぺりと平和なら、分析を導入することは異質さと政治の導入になる。 しかし「分析という政治」は、基本的に排除される。 順応で維持される関係者のナルシシズムを毀損するからだ。


ナルシシズムが支配する場では、「利用できるメタ目線」だけが許される。 ここでの分析の多様性は、消費財の多様性でしかなく*1、実は分析の生産態勢は統一されている。 その固定されたスタイルでの “優秀さ” だけが称揚され、主観性の生産態勢そのものに目を向ける分析は、評価以前に排除される:「それは知性ではない」。


左翼の文脈では、たいてい《制度》概念は敵とみなされる。 制度は、個人の実存を縛り、ファシズムであり、云々*2。 しかし、「制度概念に敵対していればそれが反ファシズムになる」というその発想じたいが、固定的な制度順応でしかない。


集団的な大文字の責任が語られるとき、この責任にはディテールがない。 自分の固定的な正当性を確保するために自虐しているだけで、本当に身近な関係性でのディテールは、分析されない*3。 大文字の正当性を確保して悦に入るその態度じたいが暴力的なナルシシズムであり、人をカテゴリーに縛り付ける差別主義でしかない。 つまり、全体主義的な制度順応者が口にする責任概念でしかない。 「責任」の話に、ディテールに内在するプロセス重視がない。メタ的にイデオロギーを標榜するだけ。――私はこの欠落をこそ執拗に問題化している*4


制度論については、分節過程の、留保なき中心化という根本趣旨が理解されなければ、話にならない。 私は集団的意思決定をめぐる疑念を書いているが(参照)、これはあくまで「プロセスの中心化」が理解された後になすべき批判であって、この趣旨が伝わらないかぎり、集団的意思決定の話だけをされても、意味のある臨床論にはならない。


今の弱者支援が、どれほど「プロセス抑圧的」な、卑怯極まりないロジックに支配されているか。 私が導入を試みている政治性は、メタ言説に居直る、ベタな当事者論のナルシシズムとは真逆のものだ。



*1:消費財としてのメタ分析

*2:こうした理解では、私が固執する制度論と、30年前の「脱施設化」運動とが、同じに見えてしまうだろう。 私が制度論を説明すると、年配のかたの多くが、「あぁ、あれね…」と、うんざりした顔をされる。

*3:「男」だの「日本人」だの、大文字のカテゴリーでは自らの加害性を語るくせに、自分が個人的に傷つけた相手との関係は黙殺する――こんな話ばかりが聞こえてくる。

*4:支援者も家族も「ひきこもる本人」も、考えるべきは関係性のリアルタイムのディテールであって、今はその問題設定が欠落している。 たとえば斎藤環氏のように、事後的に関係性をメタ分析したところで、論じ手の生産態勢が固定されているために、関係性は組み変わらない。 「観客席から分析してみせた」だけだ。 ▼これは、主観的な思い入れや「真剣さ」とは別の話だ。 私は、斎藤環氏が「本気」であることは疑っていない。 【追記】: ひきこもりの臨床では、その「真面目さ」こそが問題になっている(参照)。 斎藤氏は、そこを自分で問題にすることに失敗している。