ディテールをこそぎ落とせば「仕事をした」ことになると思っている人たち
「現実」は、規範の威圧ではなく ディテールにある
「何をすれば労働をしたことになるのか」に、現実概念がある。
草原で暮らす家族の分業から、分業の爛熟した社会へ
「社会化」を、規範固定の上でイデアの世界で行なう人たち
そのルーチンを「仕事をした」と見なす受け手*1
勘違いした労働を「それでいい」と受け取る人がいて、流通が閉じている。 需要と供給しかないなら、労働過程は「道具」でしかない。 この発想が再帰性を強める。
ディテールに取り組むことが必要なのであって、「働いた」というアリバイ*2が必要なのではない。 「働け」という抽象的な言い方は、最初から形而上学者として説教している。 形而上学者は、メタなアリバイから見下ろすだけで、自分自身の着手事情を分析しない。 なぜそれをすることで「仕事をした」と見なされるのか。
《正当化》は、「何をすれば仕事をしたと見なされるか」にある。 何をすれば社会化に成功したことになるかは、文脈に依存している*3。(制度によっては「祈る」ことが不可欠の労働になる。それをしない者は糾弾を受ける。) ▼社会性を分類するだけの社会学には、個人の社会化を政治的取り組みとして語る視点がない。 「結果的に成功した社会化」と、「失敗した社会化」を観察対象にし、観察する自分を「成功した社会化」*4にするだけ。 鏡像的な順応志向があるだけで、社会化の試行錯誤が主題化されない。 メタへの従事は最初から「お仕事」として約束され、それに従事しているかぎり、自分のプロセスは問われない。
イマジネールな歓喜と、素朴な怨念の両極しかない*5。 そこで、「正義」のアリバイを確保して威圧するばかりでなく、自分のその着手が仕事をまったくしていないことに気づくこと*6。
アリバイ調達でしかない仕事は、結果的にアリバイの内容をも間違わせる。 労働過程を「なかったこと」にするメタ談義は、その排除においてメタそのものを誤らせる。 しかも、メタなアリバイがあるゆえに責任を取ろうとしない。 メタへの没頭そのものが、ひきこもり的な「社会性のなさ」にあたる。 政治性の欠落(自己の道具化)こそが、現代の社会性として待望されている。 本人たちも、強迫的にそこに順応していく以外に自分を社会化する方法を知らない。