現場的な自己反省のなさ



福祉思想や「当事者」という言葉への反発は、それが「自己反省のなさ」に見えるからだ。


反差別運動の一部は、「自分たちは反差別だ」というアリバイを得たと思い込んでおり*1、陰に隠れてひどい差別発言を行なう。 相手を名詞形のカテゴリー*2に落としこむ者は、気まぐれによってではなく、言説そのものの構造によって差別を再生産する。 ▼「自分のためではなく、他人のために活動することにプライドがあるんだ」*3――美談に見えるこの発言は、発言者本人の現状と過去を分析しないためのアリバイになっている。 彼らは、自分自身のことを絶対に分析せず*4、それを「正義のストイシズム」だと思い込んでいる*5


フーコー社会学ラカン*6など、自己反省を内容として持つ “理論” を研究する人たちは、「すでに自己検証はできている」と思い込んでいる。――反省的・分析的な思想を「読む」人間は膨大にいるが、自分の足元を思想家本人のように自分で考える人間がいない*7。 そのことは、自分自身の順応の動きへの無反省として生きられる。
自分の足元を分析する人間がおらず、メタ的なアリバイ共有ばかり目指している(アリバイ帝国主義)。 メタ分析をウワゴトのように言い合い、メタでアリバイを調達する自分たちのナルシシズムは分析されない。 ▼この状況で、当事者的に取り組んだ現場分析*8の取り組みは、逆に「自己顕示」「ナルシシズムだ」と言われる。


自己分析なしのナルシシズムを認め合うことで「和気あいあい」をするのではなく、お互いに制度分析のディテールがあるからこそ生じる出会いを志すのでなければ、窒息的な和合が捏造されるばかりだ*9。 ▼自己反省のなさをファシズムと呼ぶなら、現代のファシズムは良心的で怒りに満ちた順応主義の形をしている。 反体制やメタ分析は、それ自体が順応主義のナルシシズムであり得る。


「環境管理」*10というならば、その環境は、ナルシシズムに奉仕するよう整備されている。 ナルシシズムを満たそうと「自由に」動けば、制度的抑圧に加担している。 自分のいる場所での制度分析を拒絶するナルシシズムが、逆らえないほど強力な暴力の動きを作っている*11。 中間集団がナルシシズムと和合を優先させれば、「冷静な分析」は罵声をもって排除される。





*1:「これでいいんだろうか」という再帰的な逡巡を逃れている。

*2:「女」「在日」「ひきこもり」「医師」云々

*3:私に対してひどい差別発言をした男が、実際に言った言葉。

*4:「正義」と「スキャンダル」の二項対立しかないと思い込んでいる。 自分のトラブルを遡及的に分析することがまったくない。

*5:この幼児性を「中二病」と名指し、キャラ化とメタ分析の気分に浸っても仕方がない。 それが自虐として自分に向かっても、規範的な自意識の制度はいっさい組み替わらない。 単なる自虐は分析ではない(むしろ自虐とネタ化によって分析が免除されている)。

*6:ここにマルクスドゥルーズガタリなど、誰の名前を入れたところで同じだ

*7:たとえばひきこもっている人は、大学院を卒業してからでないと自分のひきこもりに取り組んではいけないのか? 馬鹿げている。 まったく学歴がなくても、自分のいる場所で《現場分析》を開始すればいいではないか。 勉強は、むしろその分析を豊かにするためにある。

*8:フランスの文脈で「制度分析」と呼ばれているもの(参照)。 日本語の文脈では、《当事者》という言葉に絡ませる必要がある。 ▼「心理学化」を批判するだけでは、心理学化を批判している本人はメタなアリバイを得て自分の場所を分析しない。

*9:【参照】:永瀬恭一氏、「「組立」のコンセプト」。 永瀬さん、ありがとうございます。

*10:東浩紀

*11:ナルシシズムの構成ロジックを、誰も検証しない。