「で、あんたは?」

思想家を紹介したところで、知識や分析装置が増えるだけで、自分の足元を分析したことにはならない。
私がフランスの「制度を使った精神療法」や三脇康生を紹介しても、たいていは「難しい現代思想が好きなんですね」で終わる。 そのような指摘自体がナルシシズムに閉じてしまう。――彼らの取り組みを紹介したということは、私は自分の居る場所を分析せねばならないということだ。(提唱されているのは労働のスタイルであって、労働の結果としての理論をうやうやしく拝受すればいいのではない。)
私はずっと、当事者的な分析のモチーフから離れていない。 理論を応用してメタ分析して悦に入るのではなく、「自分の居る場所を論点化する」という過程そのものを強調し、その取り組みを提唱している*1
メタに語れば当事者的分析を免除されると思い込む傲慢さ。 また逆に、「当事者的に」語りさえすれば自己分析を免除されると思い込む「糾弾派の自分語り」も、分析を免除されるわけではない。 単に他罰的な自分語りは、自分の事情をまったく分析しない。(正義ばかりを語る人は、その陰に素朴な「自分語り」のナルシシズムを隠している。)



*1:具体的な取り組みは、そのつど試行錯誤の連続でしかない。