メタ的正当化の暴力性

理論と現場とが対立するのではなく、現場・理論のそれぞれが、ベタな指針(メタな権利を主張する指針)に居直っている。 硬直したメタ言説への居直りは、共同での試行錯誤である「読み合わせ」のデリケートさを押しつぶす。 【資本、アカデミズム、弱者擁護、文学、「カテゴリー当事者」などが、居直りのパターンにあたる。 「居直り=正当化」のジャンルが、解離的に乱立している。】


メタ的正当化に居直り、自分の暴力性を認めないのは、自分の当事者責任を回避するためだ。 自分の暴力性を一切認めない否認は、キレて不当な暴力をふるうことと裏表。 私たちは、適切に自らの暴力を組織しなければならない。 「自分だけは暴力ではない」というメタ的な正当化は、最悪の欺瞞*1
国家権力は、私的トラブルから私たちを守ってくれない。にもかかわらず、私たちから暴力の権利を奪う。 身近な悪意から身を守るためには、自前の戦術や強制力が要る。 つまり、誰もが交渉や暴力の当事者性から逃げられない。
「まじめに努力しているから、自分は承認される」と思い込む人は、メタ的正義に(妄想的に)浸っている。 「クソ真面目」であることは、たいへん暴力的だ。 ▼自分を他者と見る当事者主義(参照)は、いわば「分析の正義」であり、マジョリティの正義(まじめさ)とは相容れない。 脱政治化された生活*2の中では、誠実に努力すればするほど、「狼藉者」の扱いを受けかねない。


弱者擁護のイデオロギーに居直る「正義の味方」たちは、自分の属する強者カテゴリーで “当事者的に” 反省してみせるが、自分の個人的加害経験はまったく素材化しない。 【たとえば、「俺は男だから女に加害性がある」と言いつつ、自分個人が女性にやってしまったことは分析しない。 これは、「日本人」「プチブル」という自分のカテゴリー責任をひたすら言うくせに、自分個人の現在の言動は反省しない政治言説に重なる。】 ▼政治性が、どこまで行っても「カテゴリー当事者」の拮抗関係に終始し、反差別のためのメタ的な理解がない。 だから、政治的抗議そのものが差別発言のオンパレードになる*3ヘゲモニー争いは、当事者性の「相互疎外競争」であり、政治とは「どちらが首尾よく相手を疎外できたか」になる*4
正しい批判精神を持つ者は、必ずにこやかに共闘できることになっている(内ゲバを誘発する同調圧力)。 絶対的正義を標榜する「運動体のイデオロギー」は、相手を屈服させながら、相手が疎外を口にすることを許さない(スターリニズムにおける“自己批判”の強要)。――ここでは、分析なき「運動体のイデオロギー」と、そこに介入するリアルタイムの分析とが拮抗する*5


硬直した政治イデオロギーにおいては、「当事者」枠は、アリバイとナルシシズムのためだけに利用される*6。 自分の失態を分析するには、「当事者」という枠は使われない。 メタ的アリバイに居直るかぎり、自分の当事者性は抑圧される。 彼らはそれを「成熟」「社会性」と呼び、どこまでも逃げ回る。 じつは、みずからの当事者性こそが最も忌避されている*7
メタ言説のアリバイに居直る人たちで充満する社会環境は、そこへの参加をたいへん困難にする。 ベタな制度順応しか許されず、現場的試行錯誤は見下され、敵対視される。――再帰性に居直るひきこもりの傲慢さは、メタ言説に居直る社会環境の傲慢さと、実は同形をしている。



*1:ヒューマニズムとテロル (メルロ=ポンティ・コレクション 6)』に付された、合田正人の解説を参照。

*2:酒井隆史暴力の哲学 (シリーズ・道徳の系譜)』p.103を参照

*3:「医者のくせに」「童貞・ひきこもりのくせに」云々。 あるいはまた、わざわざ差別用語でレッテルが貼られる(ex.「あいつはトーシツだ」)。 ▼差別主義者は、「○○のくせに」「見るからに○○」など、属性カテゴリーに落とし込む発言をしきりに行う。それは、言動の矛盾を指摘する「〜したくせに」とは別ものであり、他者の存在は「属性=カテゴリー」で処理される。 ▼カテゴリー差別で《他者》として受け入れられた存在は、みずから行う分析的発言で他者として承認されることがない。知的には、あくまで「下」の存在として囲われている。――これが、Be動詞による「多様性の肯定」であり、「当事者の多様性」を承認する運動体言説の欺瞞にあたる(参照)。

*4:「ベタなメタ言説」と「ベタな当事者言説」の敵対関係や、「“当事者”同士でどっちが弱いか」など。

*5:ドゥルーズ/ガタリ的にいえば、「領土化を目指す運動」と、「絶対的脱領土化の運動」が対立している。

*6:「学者」でありながら「当事者」でもある者は、両方のカテゴリーにおいてアリバイとナルシシズムを手に入れる。それぞれの当事者性こそが分析されるべきなのに、それが為されない。 メタ言説のアリバイと、ベタな当事者性のアリバイとが解離的に同居する。

*7:そのことに気付くのに、たいへん時間がかかった。 私の “当事者発言” を支持していた支援者たちは、自分自身の「関係者としての当事者性」を見ない。 また、自分のことを「ひきこもり当事者」と考える人たちは、かえってみずからの当事者性を分析せず、運動体のイデオロギーに居直って被害者面する。 誰もが正当性のナルシシズムに居直っており、その現状を当事者的に分析しなおすことは拒否される(防衛・否認)。