社会化の方針

私は、「もう一度考え直す」のが仕事だと思っている。 【当事者主義、制度分析】
彼らは、「できたことにしてしまう」のが仕事だと思っている。 【専門家主義、商品化】
一緒にやれるわけがない。



追記(10月03日)

私はここで、《分析的な再素材化》と、《アリバイへの居直り》を対比させている。
弱者カテゴリーに居直る “当事者” は、関係者としてのリアルタイムの分析を拒否し、特権的アリバイを主張する*1。 その意味で、労働者よりは資本家に似ている。
「金はないが、分析を拒否して居直ってもいいことにしてしまう」。 アリバイがメタに確保され、ディテールの再検証と改編を逃れる。
私は、実情への理解と労働の態勢がメタに固定されることに、いわば身体的に激怒している。 現場にある生身の分節過程が否定され、そこにこそ疎外があるからだ*2。 労働過程の疎外を、労使関係に還元して悦に入っている限り、この話は見えてこない*3
権力を得た左翼政党が不当な特権階級になってしまういちばん基本的な原理は、ここにある。 彼らは、改編を逃れて*4固定された「プロレタリアの権利」に、居直っているのだ。 「プロレタリアの味方」を詐称できた者が、「お金なき資本家」になる。下品な左翼は、「弱者の味方」を詐称して周囲を威圧する。自分の足元の関係性を棚に上げて。
居直り型の “当事者” は、「専門家に命令する特権階級」であり、それ自体が制度的に硬直した専門家主義でしかない。



*1:当事者論を人権論との対比で行う作業(参照)は、ここで徹底的に慎重になるべき。

*2:「現場にある生身の分節過程」を否定するのは、現場にいる人自身であることがある。下手に試行錯誤するより、「態勢を固定して嗜癖したほうがよい」という判断だ。 いまは、嗜癖材料こそが支持されやすい。そのしわ寄せは誰に行っているか。 ▼支援される側としては、役割として固定された特権を動かされることになるため、私の議論と利害が対立する。その「被支援者」の不当な既得権益(固定された特権)を守ることが、多くの“支援者”の仕事になっていたりする。――固定された特権を守ることで、支援者側のアリバイづくりも成り立っているため、この支援論は、最初から持ちつ持たれつの差別主義なのだ。

*3:そのようなイデオロギー的固定こそが疎外の温床なのだが、多くの左翼系コミュニティ(つながり)は、その「イデオロギーへの疎外」によって成り立っている。この疎外を否定して自前の分節を開始すると、コミュニティの解釈格子と対立し、政治的糾弾を受けることになる。スターリニズムあさま山荘事件は、過去のことではない。目の前で常に機能している。

*4:役割理論的に