居直るのとは別の仕方で

「欲望」「衝動」と意訳されもするスピノザの概念 《コナトゥス conatus》 を検索していて出会った論考:

これを読んで、「20世紀のフランス思想というのは、《当事者-発言》論だったのだ」とあらためて思い至った。 そういう文脈での研究はさらに続けるとして、以下に引用とメモ(強調はすべて引用者)


 レヴィナスは (…) 「このコナトゥスはどんな正当化にも、どんな糾弾(=告発 accusation)にも無関心」で、「問いを欠いている sans question」と批判している(『聖句の彼方―タルムード--読解と講演 (叢書・ウニベルシタス (512))』)。

 「コナトゥスのエゴイズム」が意味するのは、自分が存在するということに懸念を抱かずに存在できるという権利を優先させるということであり、それが徳と同一視されるのだが、このように理解されたエゴイズムに囚われた人間は、そこから一挙に我欲に囚われて生きることに「疚しさ」を感じなくなるのである。 このようにして善と同一視された生命力(コナトゥス)は、「全体性」の哲学が最後に行き着くところの「戦争」において極まるのである。

当事者性の検証なき強調は、右翼的居直りにあたる。

  「〔本来の意味での人間らしさとは〕 他人の場所を不当に占拠してしまっているのではないかという懸念(inquiétude)です。 存在の中の自分の席、自分の場所についてこのように審問すること、これはユートピアじゃないんでしょうか。 ユートピアと倫理! それは実存することに疚しさを感じないで安住している存在を逆転させ、転覆させます。 それを私は『存在するとは別の仕方で autrement qu'être』と呼んでいるのです。」(レヴィナスの発言、マルカ『レヴィナスを読む (ポリロゴス叢書)原書より)

関係者としての問い直しこそが話題にされている。
私はこの《転覆》を、フロイト的無意識として扱われた《主体の壊乱》*1や、内発的な分析生成としての 《schizo-analyse》 と並べたい。 「このままではまずい」という 検証-衝迫 は、あくまで倫理的なレベルにある。

    • そこで問題は、そのような倫理はどのような制度的強制力と結びつき得るのか、ということ。 人文的にいくら思いつめても、親密圏の暴力や政治経済と結びついてどこまで実効力たり得るのか。


 「〔自らがそこに停留している生そのものが妖怪と化し、冥府と化しているのではないかと〕自己保存はただ疑ってみなければならない。 生の罪過(Schuld)。 生は生であるという純粋な事実によって既に他者の生の息の根を止めているのだ。 圧倒的な数の虐殺された人々の代わりに、ごく少数の救われた人々がいるという統計に相応しているというわけである。」(アドルノ否定弁証法』)

何気ない日常生活は、犠牲の上に維持されている。
それを「罪悪感に苦しむ自意識」に還元すると、どうせ何も考えなくなる。

 「疚しさとしての存在」が対格 accusatifを意識の始原として持つということは、他者からの「審問」、「告発 accusation」に常に全的に晒されているということ(裸出性)のその「受動性」のうちにしか考えられないような存在であるということだ。

当事者性は、居直りではなく、むしろ《晒されている》ことにある。
「私は当事者だから、検証もされずに被害者ヅラができる」とは真逆。

 他者からの「審問」、「告発 accusation」に対格的に、常に全的に晒されているため、自己の下への凱旋帰国は許されない。自己という最終的な逃避のための安息所は「疚しさの意識」には最初から奪われている。安息は永遠に他者に差し出されているのである。対格的に全てを曝け出すとはそういうことだ。絶え間なき難航としての「倫理的運動」には終点がない。つまり母港には戻れない ― というかそもそもの初めから母港などなかったことに、他者からの「審問」と「告発」のただ中で気付くのである。
 「疚しさ」とは、「『地の異邦人』であり、祖国も定住の家も持たない」(『観念に到来する神について (ポリロゴス叢書)』)ということである。 「意識の中にこのような倫理的運動を誘発し、『自同者』の『自同者』自身との一致についてのよき意識=疚しさの欠如(bonne conscience)を乱す『他人』」(『実存の発見―フッサールとハイデッガーと共に (叢書・ウニベルシタス)』)。 つまり、『自我』は「自らの意識が自分自身の上に安らうための場所としての自己同一化を失う」ということが意味するのは、そこまでに至った倫理的主体にとっての「『自己』とは、『自我』の自同性(identité)の破損ないし敗北」(『存在の彼方ヘ (講談社学術文庫)』)であるということである。



ここにある破綻の受動性を、「無限に謝る」としてしまうと、フェアな検証がなくなって、不当な同一性に居直る他者に支配されてしまう*2
比較して検討すべきは、関係性の検証を自意識に還元しないメルロ=ポンティガタリの《制度》概念だ(参照)。 尊重される必要のある際限なき《自己解体》は、内発的な分節生成の条件なのであり、ただひたすらに自己否定すればよいのではない(それはむしろ最初から落とし所の決まったナルシシズム*3でしかない)。

  コナトゥスの存在論的な自己中心的排他性から論理学的・科学的真理の排他性が生まれ、それが戦争の、そして「一つにまとまって全体を形成しているエゴイズムの群」としての全体主義の出現へとつながっていくというプロセスの描写においてアドルノ/ホルクハイマーとレヴィナスは見事に一致している。 これは、両思想家がナチズムの「体験」を西欧の哲学の根源にある「自己保存のコナトゥス」という概念にまで遡って徹底的に考え抜いたということを意味しよう。

公理系に居直る社会科学や精神医学・臨床心理学が、不当であり得ること。
具体的な関係を検証せずに、《ディシプリン》を言い訳にする暴力。

 神=自然から「与えられた 本質 essentia data」としてのコナトゥスによって、神=自然の力(能)を「表現=展開する」限りにおいてのみ現実に存在し活動することができるというスピノザの個物の定義 (・・・・)
 諸個体に優先する「全体性」(実体=神)、その「全体性」の力を引き受け、担う(「表現=展開する」)ことによって初めて、諸個体は「意味」(存在)を全体(実体=神)から拝受するという構図

 個体(人)は、全体性から圧倒的な認識論的魔法をかけられているため、自らが全体性によって既に総力戦に借り出されてしまっていることを認識することができないということについては、「全体はただ個体の自己保存という原理 ― 中略 ― を通してしか機能しえないのだが、その全体が、もっぱら自分のことしか考えないように各個人を強要して、客観性を洞察できないようにしてしまう ― 中略 ― この個体化は、自分が疑う余地もない程確実なものであると思い込んでいる。そして魔法にでも掛けられたかのように、誰が何と言っても自分が媒介されたものであることを認めようとしない」(『否定弁証法』)と語っている。

すでに生きている思想と場所のパターンに気づかない。
そして、それを検証しようとする活動をむしろ《思想的に偏っている》と非難する…。



ここで解説されたレヴィナスのコナトゥス批判は、

場所や意識の解体を通じた、全面的に晒された当事者的な分析生成である《schizo-analyse と同じ側にあるように見える*4
それは、日本で《当事者主権》と呼ばれている運動に対する原理的批判になっている。 弱者ポジションの同一性に居直り、不当な特権化を要求する《当事者》論は、フェアな検証を拒絶しており、最初からそれ自体が差別発言のかたちをしている*5


河村厚氏は論考の最後で、次のようにレヴィナスを批判している。

 スピノザの言う「自己保存のコナトゥス conatus sese conservandi」における「自己」とは、他者との妥協や共同を頑なに拒む我欲の硬い塊ではなく、レヴィナスが言うような「アレルギー性のエゴイズム」と「自我の帝国主義」が支配する排他的な主体などでは決してない (・・・・) 神の力能を表現し、自己以外の事物や他者へと開かれていることによって初めて存在しうるようなスピノザ哲学に独特の「様態としての自己」について、レヴィナスは捉え損なっているようである。

むしろ、
ドゥルーズ/ガタリ的な分析生成をこそコナトゥスと捉える方向はないんだろうか。 つまり、無意識の内発的生産の consistency をこそ《自己》と見なすこと。 分節プロセスの強度として生きられ、それ以外の場所に個物として確保できない自己。



*1:ラカンフロイトの無意識における主体の壊乱と欲望の弁証法」(『エクリ(3)』掲載参照)。 問われるべきは、読み取られた壊乱のタイプと、その壊乱を通じて行われる作業の方針だ。

*2:日本の左翼は、他者が確保した暴力的同一性を、みずからの暴力のアリバイにしている。 同一化の暴力が、自分で自分の手を汚すのではなく、他者の居直り(ナルシシズム)を利用するのだ。 それゆえ、固定的にカテゴリー化された《他者》の無際限な尊重は、倫理的再検証を拒絶する暴力になる。 「弱者擁護」をアリバイにした活動家たちは、当事者的な自己分析をしない(むしろそれをヒロイズムとすら勘違いしている)。

*3:つまり居直り

*4:「存在するとは別の仕方 autrement qu'être」 としての 《schizo-analyse》。――とはいえ私が接した範囲では、レヴィナスの議論には、分析そのものが内発的に生成してゆくという(ドゥルーズ/ガタリ的な)モチーフは読み取れなかった。【※あればぜひご教示ください。】

*5:左翼系コミュニティで露骨な差別発言が絶えないのは、偶然ではない。