記述を監禁する秩序を、内側から問題にすること

    • [A] 私たちは、日々の生活の中で「他人や自分のしていること」の記述をしばしば行います。 しかし/そして、そのすべてが 記述された人に対して苦痛をもたらすわけではありません。

 ならば、そのうちのいくつかが誰かに苦痛を与えることがあるのだとすればそれは、「記述されたから・対象化されたから」ということ以上の理由が必要でしょう。(こう考えることによって、「記述」や「対象化」について、現在よりももっと立ち入った議論をすることが可能になるはずです。) (「d.提案」)

 「問うべき問い」の案をシンプルに ひとつ挙げてみたいと思います。 すなわち、最終的に問われるべきことは、

  • 「ある人(たち)がやっていること-を-別の人(たち)が記述すること・対象化すること」は、どのような事情の下で 誰かに苦痛を与えるものとなるのか

 ということではないだろうか、というのがそれです。 (「d.提案」)

ご提案ありがとうございます。
これをこそ丁寧に考えなければならないのですが、今の時点での私の理解を、いくつか箇条書きにしてみます(繰り返しになることを恐れず)。

  • 学問では、《事業》が、目の前の関係性を忘れている場合。 あらかじめ確保した考察や調査の正当性が、ほかの一切を凌駕する。 《事業の秩序》が、関係実態を言葉にするより優先され、むしろ実態への言及はタブーになる*1。 差別的な見下しや排除が黙認される、いわば《業績》の帝国主義
  • 支援では、「支援とは××である」というイデオロギーが、目の前の関係性を忘れている場合。 あらかじめ設定した目標の正当性が、ほかの一切を凌駕する。 支援者のナルシシズムの確保が、関係実態を言葉にするより優先される。 支援フォーマットへの換骨奪胎的な社会参加が抑圧され、記述が最初から役割確保の形をしている。
  • 対象者本人が自分で考え直視の構図じたいがパターンとして硬直している場合。 記述のメタもオブジェクトも自分だが、学者の言説を内面化し、「私は学問を知っている」と悦に入ることがある。 差別そのものを内在的に組み替えるのではなく、「メタに身売りした被差別民」になっている。 問題意識の構図自体が問題であることに気付いていない(目の前の実態を無視したメタな正当性を維持するために、気付くことを拒否する)。
  • 一般の労働現場まで含めて、あらゆるポジションが、記述されるべき自分の事業や役割に居直っている場合。 ひたすら順応主義的で*2、正当性を確保する方針じしんが内在的に抱えてしまう問題に気付かない。 洗脳された優等生のような主観で、無自覚に生きられる方針を、内部から新規に分節することが許されていない(考えもしない)。 制度内での既得権益というより、《どの評価制度を採用するか》レベルでの既得権益が、悪循環を支配する。


    • 学者であれば、 《これは学問だ》が免罪符になり、具体関係以前に《学問をしている》ことが事業ナルシシズムに陥って、目の前の人間を利用してもかまわないことになる。 具体的な関係に生じる問題は、闇に葬られる。 「調査主体が、逆に対象者によって報告・検証される」ことが禁じられているのは、どういうことなのか?(検証は、一方的糾弾ではない。)
    • 支援者であれば、 《これは支援だ》が免罪符になり、具体関係以前に《支援をしている》ことが事業ナルシシズムに陥って、役割関係の固定が顧みられない*3。 支援される側の内在的問題意識は葬られる。と同時に、実は支援する側の問題意識も封じられ、それが奴隷的労働環境の抑圧につながっている。
    • 支援される側であれば、 《自分はマイノリティだ》が免罪符になり、具体関係以前に《○○当事者である》ことが役割ナルシシズムに陥って、主観性が陥いる思考の硬直や、役割関係の暴力的固定が顧みられない。 「○○当事者の言うこと」が、検証もされずにまかり通り、「○○当事者であること」が、検証を拒絶する既得権益になってしまう。 それ自体が差別だが、差別される側に恩恵があるので、内部からは苦情が出にくい。



学問や支援だけでなく、そもそも《関係を維持する》ことは、プライベートまで含めて、反復される《事業の維持》だと思います(やや特異な理解ですが)*4。 そのディテールを考え直すことを許さないのであれば、具体秩序がメタ的アリバイで固定されている。 実際に生きられた関係を検証するより前に、「これは○○だから」というアリバイが先に支配するわけです。――さまざまな立場の人が口にするこうしたアリバイに、私は強く怒っています。(アリバイの硬直が苦痛そのもの。)
たとえば「弱者支援」というアリバイは、差別主義的な居直りにもなり得ます*5。 そのアリバイに固着した左翼共同体は、正当性のメタ的確保でつながりの帝国を維持しています。 「正当性のメタ的確保」を宗教と呼べるなら、それはとても宗教的であり、実態のディテールを唯物論的に話題にすることが許されません。
いちど大文字の正当性をカッコに入れて、目の前の関係ディテールをこそ考えなければならないのに*6、《これは正義だから》で終わる。 《マイノリティを支援している》ことが、イデオロギーで自分を確認するための機会になっている。 常にすでに批判されない、100%の正義*7


これは、支援対象者についても同じです。 「私は○○当事者だから」で居直るとき、関係実態そのものより、「誰が正当化されるべきなのか」が最初から役割ポジションで決まっている。――つまり私は、単に《学者が悪い》と言っているのではなくて、ディテールを無視する正当化実務の硬直をこそ問題にしていて、それは状態像の固着を生む、臨床上のテーマなのです。
正当性のありようは、いちど検証すればよいのではなく、問い直しの努力そのものが秩序に位置づけられる必要があります。(その問い直しの動きを、「当事者」と動詞形で語ったり(参照)、「役割ではなく、プロセスとしてのアイデンティティ」と呼んだりしているのですが…。当事者という概念を、動詞化しようとしているのです。)

    • ありがちなのは、「難しい話も知ってるんだけどさ、そういう話はしないわけよ」みたいな態度。 それは一見「フレンドリー」ですが、柔らかな物腰まで含め、目の前の関係が本人のナルシシズムに奉仕することにしかなっていません*8。 関係性が、お互いのナルシシズムを確認し合うだけの、《ナルシシズム維持事業》になっている。


*1:学問事業が進めば進むほど、本来言葉にすべきことが抑圧される

*2:それによって、固定的な役割ポジションを確保しようとする。 苦痛の内実よりも、利権確保が優先される。 ▼たとえばDSMに従っていれば、制度的な “専門性” を手に入れたことになる。 苦痛の実態より、「誰が専門家なのか」の競争の方が優先される。

*3:差別発言が、支援事業の内部で黙認される。 というより、こういうフォーマットに従うかぎりにおいては、差別的でなければ支援を志さないのかもしれない。

*4:その一部に、学問・支援・ビジネスなどの関係がある。

*5:「弱者カテゴリーを支援するのは、無条件に正義なのだ」。 これも、実際に弱い立場にある人に恩恵をもたらす差別的囲い込みです。

*6:エスノメソドロジーの「カッコに入れる」考察方法と重ねて理解しました。

*7:こういう主張の人がロールズを参照して、「私への反論は《善》だが、私は《正義》だから、私の方が上だ」と言ったことがあります。 検証より前に正当性が確保されている。 「あえて正義」というわけです。

*8:知的言説への従事のしかたにおいても、目の前の関係性の作法においても、役割還元的で事業に従順であり、《言説の事業》と《関係の事業》のいずれをも、問い直すスタンスをもっていません。 私はそれをナルシスティックな《居直り》として糾弾しています。