時代と思想――当事者性の抑圧と配分のスタイル


カテゴリー当事者への居直りではなく、素材化としての《当事者-化》。 プロセス中心主義。

私は9年前、「ひきこもりの当事者」という役割固定で社会参加の機会を得た*1
しかしその後の私は、「当事者的分析」を周囲に要求したことで、排除されるようになった。
私に近づいてくる人のほとんどは、私を「ひきこもり当事者」という役割フレームに監禁するだけで、取り組みとしての当事者的言説化は拒否する*2


ほとんど全てのマイノリティ論は、《コスプレ的役割固定》と、politically correct な《メタ正義の居直り》カップリングでしかない。 この発想では、マイノリティ側は役割としての「当事者=被害者」に居直りたがるが、実際に生きられた関係のなかでの当事者性を引き受けなおすことをしない*3


私は、既存の当事者論に洗脳されたままコミュニティを築こうとして(あるいは参加を続けようとして)、メチャクチャになった。 その失敗のいきさつそのものが、貴重な研究材料だ。 私が維持しようとした正当性は、最初からなにか理不尽な無理だった。――ひとまず価値判断はペンディングして、紛争のディテールを誰にでも参照できるアーカイブにする必要がある。 つまり、恣意的に利用できる(価値的にニュートラルな)データベースではなく、倫理的な《問いかけ》として素材化された失敗。 過去の痕跡は、単に「利用される」のではなく、参照可能な問いかけになる。 ▼私にとっては、そのような《素材化》への同意が、最上の公共精神の発揮になる。自分の体験の素材化に、それ以上の価値はない。コスプレ的スポットライトに、意味はない。


関連する資料をすべてアクセス可能にすることは、それ自体が紛争に満ちた収集努力だ。 「決着はついていない」。――これは、政治的であるとともに、社会生活に対する終わりなき、継続される臨床活動にあたる*4。 私はまだ、決着のついていない形で宙づりの状態にある、だからまだ「始めてもいい」。――無罪放免の仕切り直しではなく、素材化のかたちで。(なぜなら、参加はすでに始まっており、今も続いている)


だれかを弱者役割*5に監禁して、それを無条件に肯定するのは、Political Correctness にみえて、差別主義でしかない。 メタ正義を口にしているあなたは、すでにその流儀で関係をもってしまった。 社会的に生きられた身体性は、意識のアリバイでは抑圧され切らない。――ところがほとんどの人は、自分が正義である(それとのカップリングにある「弱者である」)というアリバイに逃げ、「実際にどういう関係が営まれたか」を無視する。 ここでは社会性は、「アリバイで抑圧する」ことと同義になる*6。 こういう状況では、素材化はこちらの立場を弱くさせ、社会的評価をむしろ下げてしまう*7


私自身がよくわからないまま、役割固定的で差別主義的な当事者論に加担しながら生きてきた。 自分が実際に生きてしまったトラブルや葛藤を言葉にしながら、ようやく見えてきたのが、このあたりの話だ。

プロセスとして当事者性を生きなおそうとする活動は、周囲がすでに確保したはずのアリバイのナルシシズムを揺るがせてしまう。 だから怒りを買う。 既存社会の《つながりかた》は、当事者性をプロセスとして生きなおすことを排除している。



それぞれの時代や思想が、当事者性の抑圧と配分のスタイルをもつ。

プレモダンは、魔術的なアリバイ確保。
モダンは、「合理的アリバイの整備と確認」。 → 再帰的循環で、アリバイづくりの底が抜ける。
ポストモダンとは、アリバイが確保できない、ということ。(条件としても、積極的な方針としても)
アリバイがあるなら、当事者化される必要がない。――フランス現代思想は、その多くを《当事者-化》の思想や実践として読むことができないか。
私は、内発的分節(制度分析)という形で当事者化を敢行し、周囲にも同じ作業を呼びかけたところ、同時代の「アリバイと当事者化のスタイル」に抵触した。



設定された《アリバイのなさ》は、当事者化のスタイル。 承認に向かう努力の回路。

――各思想家が、それぞれの仕方で《アリバイのなさ》を主題化している。 そこに、各思想家が問い詰めた《当事者-化》がある*10


現代思想が《当事者-化》、つまり各人の《アリバイのなさ》を主題化したとすれば、それは科学(science)とは違う言説事業になっている*11。 科学は、ただ内容の正しさで語る主体のアリバイを確保しようとするだけ。 「今ここで」それを語ることがアリバイとして正しいのかどうか、そもそもあなたが科学をするべく呼びかけられてあることは主題化されない。愛する人を犠牲にして科学に没頭しても、それが正しかったかどうかは「結果的な内容レベル」でのみ問われて、それ以外は「個人史のことでしかない」。


「自己責任」という言い方において、当事者-化のスタイルは無自覚に固定されている。


昨今の知識人言説*12は、《語り手=読み手》の当事者性を免除したうえで、メタ言説の内容そのもののレベルでアリバイを生きさせようとする。 コンテンツの正しさを確保したように見える者は、それだけでナルシシズムに浸る。 しかし、今この瞬間にメタ談義をすることの当事者性は免除されない。 動物は動物化論をしない。



分節プロセスそのもの

 無意識は表象的ではなくて、もっぱら機械的であり生産的である。 (『アンチ・オイディプス(下)資本主義と分裂症 (河出文庫)』p.177)

このばあいの「機械的」は、作動中の分節プロセスであり、必要なのはその外部との連携であるはず。 この無意識論は、最初から社会的な当事者-化のプロセス論をしている。 孤立した個人内の表象として「無意識」を語るのではなくて*13、孤立したら死に絶えるしかないような分節過程そのものが、《機械》であり、生産過程そのものとして語られている。
弱者カテゴリーへの居直りは、こうした機械状無意識を抑圧する。 分節過程が当事者的に作動することを禁圧してしまう。――これはそのまま、臨床上の「まちがったあり方」だ。



*1:その後の出会いから、『「ひきこもり」だった僕から』を公刊(2001年12月)。 「○○当事者」という役割固定そのものを問い直すかたちで、その後『医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』に参加した(2008年8月)。

*2:支援側の人も、“当事者” 側の人も。

*3:役割として割り振られた「当事者性=特権」に居直ろうとする人は、具体的な関係のなかでの当事者性を抑圧しようとする。 具体的に責任を問われることを本当に怖がる。 責任論は、社会参加の苦痛において、直接の臨床上のモチーフでもある。

*4:バフチンの「終わりなき対話」は、こういう意味で理解するのでなければ、「対話さえ続いていればいい」というような馬鹿げたナルシシズムになる。 対話の継続は、あくまで《素材化の継続》という峻烈な試練だ。

*5:障碍者」「女性」「部落」「在日」「ひきこもり」など

*6:慇懃無礼」という言葉がぴったりくるような、アリバイ作りにひたすら付き合わされているような関係性。 あるいはお互いのアリバイを承認し合うような、内輪の笑い合い・・・。

*7:太宰治的な誠意や執着は、むしろ出発点だ。 「太宰を読んでいる」ことをアリバイにするようでは話にならない。

*8:「自分の労働力を自分の商品として処分できる自由」と、「生産に必要な一切のモノから解き放たれている(分離されている)自由」。 cf.『資本論』第一部第四章

*9:『経済学批判要綱』(Grundrisse der Kritik der politischen Ökonomie)でのこちらの記述を参照。 マルクスのいう「主体的 subjektiv」には、実存的な意味合いはない。(この誤読は本当に深刻だ。)

*10:マルクスは、「資本制のもとでのアリバイの作り方」についてはメカニズムを語ったが、マルクス自身の労働過程については、語っているんだろうか。 彼自身は、資本のもとでの労働をほとんどせず、「資本論を書く」という労働過程に沈潜しているが。 ▼各思想家を、「結果的な知」というより、彼ら/彼女らが生き抜き、提唱した労働過程のスタイルから受けとめること。

*11:ここではもちろん、『「知」の欺瞞―ポストモダン思想における科学の濫用』による批判を思い出している。 科学用語の安易な流用は、私は表現として軽率すぎると思うようになっている。

*12:と同時に、臨床をめぐる言説

*13:そんなメタ談義の優越ごっこではどうしようもない。それでは、最初から最後まで「支配するメタ目線のアリバイ」が確保されたままではないか。それでは、《素材化=プロセス化》が始まらない。命令する目線は、それ自体がオブジェクトレベルにある。