中間集団の問題が、なかったことにされている。

同じ人が同じ真面目な話をしているのに、ビートたけしの番組に出ていると、何か滑稽に見える。そこでたけし氏が果たす機能を、個人崇拝とは別のかたちで論じる必要がある。 《雰囲気=解釈グリッド》が、どう設計されるか*1


世界史の構造 (岩波現代文庫 文芸 323)」を論じる柄谷行人氏は、部分社会を単に肯定する(参照)。 しかし19世紀以来、社会変革の取り組みは、《中間集団の失敗》として現れたのではなかったか。 その《失敗の構造》を主題化することで、集団の作法をこそ発明しなければならない*2。 症候的に反復されるのは中間集団の失敗なのに、柄谷氏はそれを扱えていない。


「贈与の狂気を生きよ、それがラカン的倫理だ」という斎藤環氏は*3、メタに確保された倫理構造への居直りを宣言している。 それを自分で「狂気」と呼ぶことには、強烈なナルシシズムがある*4
斎藤氏の議論では、つながりの作法が主題化・再検討されることはない*5。 彼は自分と同様、メタな倫理構造(学問ディシプリンや病人役割)に自分を監禁する人をこそ歓迎し、自分がそのような関係作法を持っていることに気づいていない。 ひきこもりでは、中間集団にこそ困難があるというのに…。 ⇒逆にいえば、《自分はどのような集団作法を生きているか》を対象化できることが、ひきこもりをめぐる専門性の必須条件になる。


素材化=当事者化》には、贈与の構造がある*6
素材化こそが、「抑圧されたものの回帰」となっている*7
専門性や事業趣旨でアリバイをかこつ者は、自分が素材になることを絶対に認めない(メタポジションを死守する)。 お互いに自分の状況を持ち寄り、相互的な検証機会となるべき「当事者発言」は、自分のことしか考えない学者や企業・運動体に使い捨てられる。



どんな言説も、中間集団の作法をパフォーマティブに押し付けている*8
その無自覚な押し付けあいの場所でこそ、紛争が反復する。
⇒メタに逃げるのではない、関係作法の開発が要る。



*1:たけし氏に限らず「お笑いの大御所」には、その場の解釈グリッドを決める強さがある。 ⇒コミュニティ形成機能をもつ。

*2:主観性にかんする生産と交換の様式を、中間集団レベルでこそ検討する。 「アソシエーションが大事だ」と呼びかけることは、アソシエーションを保証しない。

*3:雑誌『atプラス 06』pp.43-52 に掲載された『世界史の構造 (岩波現代文庫 文芸 323)』への書評、「狂気としての贈与、あるいは平和への欲望」

*4:岡崎乾二郎氏との対談で露呈したのと同じ居直り(参照)。 内部と外部を簡単に切り分け、自分を「アウトローという内部」に居直らせる。 今回で言えば、贈与というラカン的倫理を標榜しさえすれば、文脈や関係性への検証抜きに自分を正当化できたことになる。

*5:「欲望の道を進め」「オタクになればよい」と言われるだけ。

*6:贈与的な素材化には、本当の怖さがある(誰が何をしてくるか分からない)。 それが、単に孤立してナイーブに終わるしかないのかどうか。

*7:メタ言説しか知らない人は、おのれを素材化して検証する営みを、「自分の話をするナルシシズム」と見なす。

*8:言説化されない《中間集団の作法》こそが私たちを苦しめる。 ▼宗教や村落うんぬんと「中間集団のあり方」をさまざまに論じることは、それ自体がメタ言説であり、「自覚されない中間集団の作法」をベタに生きることであり得る。 「学問的に論じる」ことは、それ自体が中間集団の作法なのだ。