生産態勢のメタ的固定と、関係の時間

    • 【付記】: 以下での「主観性の生産 production de subjectivité」は、ガタリの表現を参照した*1。 私たちはいつの間にか、ある生産態勢にはまり込んでみずからの主観事情を構成し、労働過程としての意識を成り立たせる。 それを単なる結果物と勘違いし、ナルシシズムに浸る(ナルシシズムという疎外)。 これは社会学にいう「構築主義」よりも、構成するプロセスの《政治性=臨床性》に照準し、リアルタイムの時間軸をもつ議論に見える。 そこでガタリは(トスケイェスジャン・ウリらとともに)、みずからの構成自身が内在的分節であり、それ自身がすでに政治的格闘になっている生産=分析を、「制度分析 analyse institutionnelle」と呼んでいる。



メタに居直った真理では、「何をしようとしているか」は理解される――読み手が同じ主観性の生産態勢にいるから。 あとはメタな真理をアリバイとして提示できれば、「意味のある事業をやっている」ことになる。 ▼数学であれば、結果物が真理であるかどうかだけが評価の対象であり、内容は理解できずとも、主張者の努力は理解できる*2。――私はこの、「メタ真理との関係で、結果物だけが問われる」という承認作法に抵抗しているが*3、その発言自身が、「商品=結果物」として評価される。 ここで評価する側は、自分の判断態勢が狭く固定されていることに気づく必要に気づかない*4。 その固定された評価の態勢が、中間集団の体質を決める*5


制度順応だけを至上命題にはできない*6、という拙文に対し、「駄々をこねるな」というご批判をいただいた(参照)。 しかし私の主張は、「結果物としての自分をありのまま受け入れてくれ」ではない*7。 私はむしろ、自分を含むすべての人に、風通しのための関係分析を要求し、支援される側の人たちにも、持続的な協働作業を要求している。
支援される側も、自分が臨床的に機能する道を探らなければ、苦痛緩和的な中間集団を維持できない。 それは、「ひきこもりの支援者になる」という形式とはあまり関係がない。 そういう役割固定をしない努力の持続にこそ、場所を選ばない《支援》がある。 単なる「歩み寄り」は、相互ナルシシズムによるお互いへの威圧でしかない*8


改善されるべき《環境》は、単なる外的要因ではない。 私たちは、お互いに少しずつ環境であり、一人ひとりの主観性の生産態勢が、お互いへの環境として機能する。
「環境は管理されており、私たちは動物化している」と語るとき、そう語る人は自分がそのように語ることが “人的な環境要因” の一部であることを無視している。 「私は動物的だから、威圧的でも許してね」と居直ることは、自分の身近な関係性を「環境管理」に委ねることか? 自分の呼びかけで、動かせることもあるではないか*9。 環境管理を説く人じしんが、その生産態勢において、誰かの《人的環境》になる。


「就労」「ひきこもり」「差別」等の大文字の理念だけでは、理念を共有できるか否かだけがお互いのつながりになる(だからすぐに内ゲバ)。 中間集団のつながりは、運動イデオロギーとの関係でメタに固定される。――これでは、集団内の承認は宗教的な暴力にしかなっていない*10目の前の関係の時間と、自分の身体性とが踏みにじられている。
お互いの生産態勢を検討し、その検討と改編のプロセスがリアルタイムの《つながり》になれば、少しは生きやすくならないか? 静態的な「つながり」ではなく、動態的な動きそのものを生きること。 ベタなナルシシズムの共同体は、自分たちの生産態勢を当然視し、目の前の関係をまったく検証しない*11



*1:精神の管理社会をどう超えるか?―制度論的精神療法の現場から』pp.26-30、『分裂分析的地図作成法』序文などを参照

*2:「努力の態勢がわかる」であって、「解き方がわかる」ではない。 生産が「解く」というスタイルに固定されており、読者は数式そのものは理解できなくとも、「何を目指した事業なのか」は理解できる。

*3:この抗議は、「頑張ってるから、つまらないものしか作れなくても認めてください」ではない。 制作過程への介入を考えている。

*4:主観性の生産態勢を固定した、「観客席にいる消費者」、「左翼イデオロギーの標榜者」、「○○当事者というポジションへの居直り」、あるいは…

*5:評価の態勢を変えれば、中間集団の事情は変わる。 ⇒経営学や組織論が気になる。

*6:経済生活を送り、逮捕されずにいるためには、何らかの制度順応がどうしても要る。それに、自分ではいくら反体制のつもりでも、私たちの意識はすでに制度順応的にしか構成されていない。逸脱・反体制等々の動きも、それだけの純度を標榜しては、「自分は○○している」という不毛なナルシシズムに落ち込む。

*7:とはいえ、たしかに現今の “当事者” 論は、何の媒介もない全面肯定論ばかりだ。

*8:関係をリアルタイムに検証しない人は、役割固定で相手を利用したり、自分を一方的に「弱者=被害者」に固定して言い逃れしたり――要するに、関係そのものがもたらす暴力に居直ろうとする。 固定された役割シナリオでコスプレをさせられる(ほとんどの医師や左翼にはこういう当事者論しかない)。 「役割」は結果物として固定され、関係を分析する臨床行為が禁止されてしまう。

*9:象徴界が弱体化している」などと言わずに、みずから中仕切りして見せればいいだけだ。

*10:弱者支援の左翼運動は、メタ的な正当化しか行っておらず、関係分析がない。 関係性そのものが、宗教的な暴力の形をしている。 そこで「当事者」は、差別的に聖化される。

*11:生産態勢を固定させた個人は、「悪い環境」の一部となっている。