関係作法を考え直さないナルシシズムの暴力

「なにをやっても許される」からこそ、嫌がらせがなくならない。 何ヵ月も嫌がらせをしていた人物が、共同体で認められてしまう。 「何をやっても許される」とき、ゆるす側が脅されており、ゆるす側自身がナルシシズムで依存している。
ナルシシズムを認め合う」という関係作法しかないのだ、今の支援業界には!*1 「ひきこもり経験者からの被害は、すべて我慢してあげる」…それが支援者たちのナルシシズムになっている。 支援される側どうしの関係も同じ。 支援とは、集団の関係作法を考え直す運動であることに誰も気づいていない。
ただ笑顔でナルシシズムを容認し合えばいいと思い込むのは、自分の首を絞めている。――DVと同じロジックが、支援業界に蔓延している。 支援者は、自分が社会に認められない埋め合わせを “支援” でしている*2。 承認されない者どうしの関係で、「笑顔の我慢」だけが許される。 なぜ、目の前の関係のための言葉がここまで死に絶えるのだ?



*1:支援にかぎらず、日本で出会う人間集団のすべてがそういう形になっている。 パターナリズムは、強者のナルシシズムへの屈従を要求する。 社会参加に成功した者たちは、生活のかかった自分たちのナルシシズムを手放さない。

*2:ひきこもりを「全面肯定」する者は、それが自分たちのイデオロギーに最初から含まれていたからであって、関係作法そのものを考え直しているわけではない。 「自分たちこそが正しかった」というナルシシズムのために引きこもりを容認している。 目の前の作法そのものをミクロに考えなおし、それをリアルタイムに続けていく、という作業はない。