「社会性とは何か」は、「臨床性とは何か」に近づく

今の政治哲学には、せいぜい「多様性の肯定」しかない。
つまり、お互いを承認し合うだけの《結果物の社会性》しかない*1
「多数者から支持される、輝きをもった存在になれ」というと、商品になること。 「他者を無条件に肯定せよ」というと、政府による命令。――商品として肯定されるか、権力に肯定されるかの違いはあっても、いずれも《結果物として利用される》にすぎない。


そういう《結果物の社会性》しか認めない人は、関係を問い直す《労働過程の社会性》を認めない*2。 ここで「社会性とは何か」は、人のつながり方であり、中間集団の方針になる。
「どんな人でも受け入れる」だけの集団は、生産過程への介入(という批評)を排除する。 「私を受け入れてくれる?」の自助グループでは、参加者同士がお互いに臨床機能を問われることが気づかれていない*3


「すべて受け入れる」ことを要求される関係では、言葉が排除される。 そこでの「社会性」は、きわめて抑圧的になる*4。 言葉にすべきことをきちんと言葉にできない状況は、最も非臨床的=非社会的だ。 関係のルーチンを、「社会性」と呼ぶか?*5


支援や労働の場で、「ナルシストの利用し合い」のような関係しか許されていない*6
短期的視点で集団に合流できていれば、お互いに「社会的=臨床的」なのか?



*1:多様性を承認する政治哲学を標榜する者は、無条件の政治的アリバイを手に入れたことになってしまう。 これがPC言説のナルシスティックな暴力性。

*2:「結果物=商品」としての社会性(売れるか否か)しか認めない人は、生産過程の社会性を見ない。 【参照:「ひきこもり臨床論としての美術批評」】

*3:グループで「全面受容」を求める者は、周囲の誰かにとって害になる。 《社会性=臨床性》の何をお互いに担えるかは、中間集団のもんだい。 ▼これは、自助グループでも「支援団体」でも同じ。 スタッフがすべて担わされる支援を、「臨床性が高い」と言えるのか。

*4:「私を認めてくれ」としか言わない人たちといると、人間不信になる。 喜劇のような状況。

*5:それは単なる党派性にすぎない。 現状では、「派閥への順応」を社会性と呼んでいるに過ぎない。 馴れ合いを断わっただけで、「あいつには社会性がない」となる。

*6:「全面的に受容すること」は、臨床性や社会性と呼べるか? それは受け入れる側のアリバイ作りであり、ナルシシズムの持ち合いっこをしただけだ。