「中間集団の再検証」という大義

ueyamakzk2009-03-08

教養のつもりで観はじめたが、感動もしたし、いろいろ考えた。
(以下、ネタバレ注意)


発言者として幅を利かせている人は右も左も私的利害の確保で終わっている。 ある人が集める支持は、思想が正しいからというより、その人を支持したほうが都合がいいと考えるエゴイストが多いからだったりする。 社会生活は、事情が見えれば見えるほど人間不信が強まる。
・・・・と、こんなことは上の世代がさんざん言ってきたことで、自分で書いてみてもその陳腐さに驚くが、本当にその通りで、しかもこの映画が作られたのは1939年。 10年前の私なら、「人物や筋書きが類型的すぎる」と古さしか感じなかったと思うが、今はスミスの屈辱に身体的な痛みがある。 何も変わらないで、70年がたった。 映画そのものの筋書きとは別に、「では自分はこれからどうするか」が鋭く問われる。


私は、次のような点を整理していた。


自分の所属集団を大義にしてしまうと、単なる利益主張になる。 また大文字の正義を主張する人は、実は「自分は正しい」という幼稚なナルシシズムに浸っているだけだったりする*1。――こういうゆがみは、《中間集団》の体質にあらわれる。 彼らにとって、表向きに標榜する言葉は裏に隠された私欲の「手段」であって、言葉はハリボテにすぎない。 うかつに本気になってしまうと、共同体の下劣な本性と矛盾する。 「本気で考えてしまった人」は、自分と無関係な場所ではいてほしいが、身近な関係では邪魔なのだ


単なる私的利害でも、大文字の全体性でもなく、中間集団の再検証そのものを公共的なテーマにする必要がある*2。 公共性が無反省に全体性を目指すのではなく*3、自分たちがどういうロジックで中間集団を(ということはそこに合流している自分自身を)営んでいるか、そこに問責の焦点がある。 ▼そうでなければ、「大文字の正義」がつねに党派のアリバイになる。 映画で生々しく描かれたように、正当化のシステムが逆用され、親密圏を問い直す公的発議が、「あいつは実は・・・」という “真実の証言(でっちあげ)” で潰される。 所属集団が私益に走れば、個人の公的意図など抹殺される。――この映画では最後にペインが証言したが、個人のスタンドプレー的「正義」を待つのではなく、小さな集団がどういうロジックで成り立っているか、その日常体質そのものを考えないと、正義は非常事態でしかあり得ない。 これでは、やっぱり日常が勝ってしまう。


スミスはあくまで大文字の正義に殉じている。 しかし本当に必要なのは、日常的な関係性の問い直しだ。 私益と全体性の二項対立ではなく、《中間集団の作法の問い直し》という課題をこそ、日常的・持続的に共有すること、むしろその問い直しでこそ繋がろうとすること。――それが成り立たないのであれば、集団は居直りの場でしかないし、公共の場は私欲の道具でしかない。 どう転んだところで、集団の作法が無反省に固定されたままなら、参加できないのは当たり前ではないか*4。 「無反省であることをあえて選択する」というが、そんな自意識の固定よりも、問題点を組み替える営みにこそ合流すべきだ。 成功者の自意識の固定は、そういう合流を拒んでいる。


「公共性を保つためには、ひきこもらなければならない」と言われる。 《ものを作る》というプロセスが、集団によって批評的強度を高めるのではなく、ひたすら籠絡されて潰れてゆく*5。 そこに個人の英雄的勇気を待望するのは、それ自体が「観客席のロマン主義」に見える。 なぜ本質的考察は排除されるのか、その状況の体質をこそ、日常的に、集団で検証できないものか



*1:ゲームプレイヤーとしての自分を輝かせたいだけで、実は自分のことしか考えていない。 とはいえ弱者の多くは、こういう人物のナルシシズムを利用し、依存する。

*2:「自分の中間集団に殉ぜよ」ではない。 身近な集団がどう作られているか、その制作過程への批評的介入と、それを通じての開放的自己統御に照準がある。 ▼内藤朝雄氏の趣旨と重なるように見えるが、私はいじめ禁止うんぬんの「形式的大義」ではなく、リアルタイムの分析と、そのプロセスによる関係を必要としている。 内藤氏は、いまだ硬直した正義イデオロギーで中間集団を維持している。

*3:それは全体主義的なナルシシズム

*4:何が《順応》とされるかは、その集団の政治風土が決する。

*5:リアルのゆくえ──おたく オタクはどう生きるか (講談社現代新書)』p.3-4、「MAXI GRAPHICA」など。 言葉や作品を作るためには、一人きりになったほうが良いという作家たちの判断には、政治と批評の実情がある。 これは社会参加をめぐる臨床方針に直結する。 ▼集団=社会に合流するかぎり、沈黙を余儀なくされる。 ある種の人たちにとって、発言のすべては「これみよがしのアリバイ作り」でしかない。