バラバラでベタな「メタへの嗜癖」

努力のプログラム自体をまちがっている。 その方向で勤勉にがんばっても、問題をごまかしているだけ。
「○○をすれば引きこもり問題に取り組んだことになる」の前提を間違っている。ところがこれを言うと理解を拒否する。ひきこもり問題に取り組むより、自分のポジションやナルシシズムの確保を優先させる。自分が引きこもりを悪化させる意識制度の共犯者になっていることを認めるより、自分のナルシシズムの制度的確保を優先させる。問題に取り組みたいのではない、自分のナルシシズムを作りたいのだ*1

説教をする人に「説教をしてもダメ」と言っても態度を変えない。威圧的な説教がメタ言説や学問の権威を背景にしてふんぞり返る場合は、説教自体が屁理屈で居直ってしまう。学問のプログラムに応じて役に立つことは、「ひきこもりを内在的に考えたかどうか」と関係ない。直接的な言説プログラムへの順応は、「順応してみせるパフォーマンス」でしかない*2。――これはつまり、ひきこもりを論じようとして間違う人たち自身が、ひきこもっている人と同じ言説プログラムにはまり込んでいるということ。 知識人は「雲の上から小便」に居直れるが、ひきこもる人は再帰性の地獄にはまり込む。(むしろ後者のほうが誠実かもしれないが、言説の努力がメタへの順応以外にあり得ないと思っている時点で同じ思い込みにある。*3


安定的な規律訓練(モダニズム)から、個々バラバラの「メタへの嗜癖」へ*4。 不在のメタにベタに嗜癖する。 バラバラで保証がないぶん、いくらやっても第三者の審級には到達できない。 だからますます嗜癖する。 その嗜癖の徹底ぶりで説得力を擬製*5=擬勢*6する。 大文字の他者がない場所で20世紀のフランス思想がやったのは、バラバラにメタに嗜癖するディレッタンティズムではなく、目の前の不在を引き受ける作法の提案だったはず。一つひとつの提案(思想家)を研究するのに、研究する側の自分がメタに居直ったままではどうしようもない。(斎藤環らは、近代的なメタへの居直りを、嗜癖的なメタへの居直りに置きかえているだけ。彼らは、「メタっぽく見えるガジェット」で遊び、「自分らはメタなんだ」と悦に入っている。*7


大文字のメタがないことに対しては、(1)フレームを固定して嗜癖する、(2)フレームそのものへの分析と再編成を過程として生き切る の両極と、あとはその適当なブレンドしかない。 たいていは、(1)をあれこれやってみせるだけ*8

社会学は、大文字の他者を擬勢するのに都合よく見える*9社会学に依拠して語る者が、「自分はメタに語っている」のナルシシズムにはまり込むのはそのため。 ナルシシズムは、制度順応の擬勢。



*1:あるいは、ナルシシズムを媒介に利用されようとしている。そして、自分が利用されるのと同じシステムで他者をモノとして利用する。「モノとしての相互利用の体系」に人を巻き込もうとしている。

*2:取り組んでいる自分自身が、硬直した制度順応を実演している。ひきこもりでは、その《順応》そのものが臨床上の苦痛になっているから、自分が単に順応してみせることは、順応問題に取り組んだことにならない。ただ「見せびらかした」だけだ。

*3:だからひきこもる人は、社会順応の瞬間に目も当てられないナルシストに見える。彼らの自意識にはひとまず、「制度順応」の方法論しかない。だからこそ、ヤケクソの言動が「脱社会」に見えることがある。▼それを「脱社会」と呼んだところで(宮台真司)、制度順応をめぐる臨床論にはなっていない。

*4:単なるメタ語りだけでなく、「単なる当事者語り」も、語る自分の身分を超越的に固定している。 特権的身分に居直る “当事者” たちも、メタへの嗜癖状態にある。 ▼メタへの嗜癖は、中間集団におけるみずからの当事者性を黙殺し、回避する。

*5:本物にまねて作る

*6:虚勢、威嚇

*7:その同好会としての中間集団、という理解しかない。むしろ、中間集団で関係を維持するスタイルにこそ、思想が賭けられている

*8:既存の論者が語る《強度》は、(1)の「嗜癖の強度」でしかない。

*9:たとえば統計資料は、価値観の葛藤なしにいきなりメタに立たせてくれる。