専門性による、核心的論点の排除
ひきこもりについてまともに考えてしまうと、社会的にパージされてしまう。これは、「心身症で社会参加できない」ことと、焦点が違いつつ、無関係ではない。
苦しい状態に内在的に取り組むことが許されていないゆえに*1、「内側から取り組むこと」が排除される。これは、政治性を帯びざるを得ない専門家言説のありように関わっている。
専門性は、それ自体が硬直したシステムを反復する。すると、その「システムを反復する」というあり方そのものを主題化せざるを得ない苦しみについては、おのれの生産態勢そのものを検証せざるを得なくなるため、キャパを超えてしまう*2。
先日いただいたコメントより:
matsuiism 人間の生活の多くは、食べたり寝たり話したりといったことの陳腐な繰り返しだけど、その繰り返しが可能であるためには多数の集団的な協力が必要。 「水道から水が出る」のも集団的事業の成果であるように。
もちろんそれはそうです。 「ルーチンをこなすことができる」のが、労働でも生活でも必須だし、元気になり始めた人からは、そういう声がよく聞かれます。(私の実感でもあります)
と同時に、それだけでは、《努力しようとする意識それ自体が硬直したルーチンにはまり込み、ひきこもり状態の直接の理由となってしまう》というメカニズムを主題化できません。
主観性の生産それ自体が硬直してしまうゆえに、逆にルーチンを生きることが出来なくなるのです。 「ルーチンが大事だから、ルーチンをやりなさい」というだけでなく、「なぜルーチンが出来なくなっているか」にまで降りた議論がないと、メカニズムの話になりません。
《主観性の生産過程》をテーマにできる専門家がいない(専門家システムの特性によって排除されてしまう)ゆえに、いちばん重要な議論が排除されてしまう。逆にいうと、主観性の方針を話題にすることが、既存の専門家システムにとって危険に映ってしまう、そのこと自体を主題化せねばならないと思います。