《つながりかた》こそが問われている

  • 既存社会を批判する人は、お互いを雇い合えるのか。 そこに自覚的方法があると言えるか。
  • 影響力ある語り手は《つながりかた》の提唱者になっている。 しかし本人がそのことに気づいていない。 知識人は「資本主義的つながり」を批判するが、自分たちの《つながり》に失敗してきた*1


  • 主観性の生産態勢と、つながりかた(言表の集団的アレンジメント)は、切っても切れない。


  • 「客観的理論」に仕える人は、他者をもその事業に引き込んで利用する。 それを批判するのはいいが、分節プロセスを単独的に生きる者は、結果として他者をそのプロセスに利用する。 それは往々にして、「恣意的に振り回すこと」でしかない。 【これは schizo-analyse/制度分析に向けられるべき根本的な疑念。】
  • 私の文章を人生論みたいに読むだけの人は、私にはあまり意味がない。 社会問題としての引きこもりより、ご自分の足元を考えてくださるほうが、結果的に協力関係になれるかもしれない*2


  • 主観性のスタイルまで含めた、事業の再編成が問題になっている。 分断化・個人化が進み、「事業の協力」があり得ない状況で、どういう協力関係を編成するか。
    • たとえば、過程嗜癖の「過程」を、労働過程に変換する環境設計はできるか(許されるか)*3。 買い物はそれ自体として労働だが、買い物依存者に頼れるか(現状では無理なら、頼れるような技術的整備をするか)。 生活破綻をもたらすパチンコを(韓国のように)禁止するのではなく、パチンコへの依存それ自体を労働に変換できるか。 あるいはアルコール分解を社会的に位置づけることに成功すれば、飲酒者の臓器は「働いた」ことになるか。 【いずれも無理に思える。】
    • とはいえ、同じパターンの言説や労働過程が嗜癖的に繰り返され、それが売買される現状を考えれば、商品市場はむしろ嗜癖をこそ利用し、再生産している。 【生産者と消費者の、嗜癖カップリング】*4


  • 労働のつながりが「消耗する関係」でしかなく、元気になれる関係に「労働としての評価」がない。 自己実現を「輝き」のナルシシズムでしか考えない悪習*5。 まったく反対に、「輝いてはいないが自己実現 / 疎外されているから輝いている」という理解が要る。 消耗ではなく、かといってナルシシズムでもない換骨奪胎が生きられないか。
  • 「ひきこもりの全面肯定」を言う人たち(参照)は、親密圏でのつながりかたを主題化せず、イデオロギーで抑え込んでしまっている。




*1:「アソシエーションが大事だ」と呼びかければそれが出来るのではない。 批判や分析を示す人はたくさんいるが、《つながりかた》こそが問われていることに気づいていない。 専門家としてポジションを得た人は、その職が前提にしている主観性の態勢やつながりのフォーマットを問い直さない。

*2:「ひきこもりについて考える」ことが、ひきこもりを悪化させる元凶を反復することになっている。 私の議論はそこに注目している。

*3:鈴木健「ゲームプレイ・ワーキング」(『NHKブックス別巻 思想地図 vol.2 特集・ジェネレーション』pp.67-92)では、ゲームプレイへの没頭が労働行為に変換されるシステムが論じられている。

*4:たとえば、嗜癖に関する言説に嗜癖する、という構図がある。 日本語で嗜癖論を読むと、「嗜癖を考えている私」に悪酔いしたような状態になる。 ⇒外国語学習を臨床的視点から見る。

*5:だから、単に「あきらめろ」になって、労働との関係にある倫理的着手が放棄される。 「青臭いか、現実主義者か」の両極しかない。