なかったことにできない

私は、社会参加も、人の集まりも、セクシュアリティも、訪問支援も、耐えがたいものとして主題化している*1。 ところが “支援者” たちは、「つらいけれども、順応できる何か」だという。 彼らは、飼い馴らせることを前提にしか論じない。 私自身が、「社会参加するには、そうしなければならないのか?」と繰り返し譲歩する*2

廃棄できない政治性を考えることは*3、それを飼いならせると思い込む人たちに忌避される(「こいつさえいなければ…」)。 彼らが抑圧し、なかったことにするのが社会性だと誤って思い込んだものに固執し抜くことが私にとって最善の良心であり、この作業を持続させない人と私は関係を維持できない。 その時点で、私の社会参加はほとんど破綻している。

優等生的な支援論にこれほどひどい怒りがわくこと。 メタ談義のインテリごっこや、共同体を前提にする支援イデオロギーナルシシズムにも耐えられない。 それでどうなるかといえば、私自身の集団参加ができなくなる。

「この人は、つらい過去が trauma になってるんです」と、誰かの体験に特化して終わらせるべきではない*4。 社会参加の trauma 性に早い段階で気づいただけであり、それを繰り返し抑圧しようとしたが、ついにそれは抑圧できるものではないのだ。 だとすれば、集団生活の営みそのものが、継続的な臨床のチャレンジであり続ける必要がある。

耐え難さへのリアクションは、人の態度を分ける。 忘れようとする者、「私は正常になれる」と豪語する者。 彼らは、相手を領土化することで自分の社会参加を続けようとする(それ以外に方法がないと思い込んでいる)。
耐え難いものに取り組み直し続けることが社会参加、ではいけないのか?

ひきこもりなんてどこにも存在しないような顔をして、この世のウソと現実逃避になじむこと。 それだけなら、環境は今のまま放置される。 「ひきこもる者を社会復帰させる」のではない。 環境世界への取り組み方を集団で変えてゆくこと、そこに合流してもらうという形をとる以外に、どんな “支援” があり得るのか? 「現実など忘れて、善良なウソに迎合する」という以外の方法が必要なのだ。



*1:ひきこもり支援は、「社会参加の耐えがたいものと付き合い続ける」こと、その耐え難さを主題化することだ。 どこかの時点で終わりがくるのではなく、環境改善としてはずっと続く(その取り組みが社会参加だ)。 自分を「順応できた内側の人間」と思い込み、「逸脱した人を社会復帰させよう」などというのは、最悪の身売りにあたる。 ところがひきこもる多くの人が、そういう身売りをこそやりたがっている。 「身売りでも何でもいいから、社会復帰したい」。 それ自体が、ウソや現実逃避を形成する。 ▼「社会は耐えられるものだ」と思い込ませるのが支援ではない(それは洗脳だ)。 耐え難いものと付き合い続けるのが社会参加だろうに。(そう考えた時点で、話せる人はほとんどいない。ひきこもり経験者のほとんど全員は、自分があるていど社会参加できるようになった時点で、その参加できたスタイルで社会を「居心地のいい場所」と思いこもうとする。彼らにはその思い込みのほうが大事なのであって、耐え難さそのものを主題化する者はほとんどいない。東浩紀がオタク談義を領土化したのと、同じような事情かもしれない。)

*2:「本当はそうではないと分かっているけど、でもしょうがないからそう思う」ですらない。 耐えがたい気付きを忘却し、「笑顔の順応者」として迎合するのだ。 その迎合の耐え難さに “あとになって” 気づく。 それを繰り返したあげくに、「私を不登校に追いやったこの耐え難さは、飼い馴らせるものではない」と、ついに断念する。 飼いならすことの不可能性が、飼いならすことの禁止に転化する。 ▼斎藤環の去勢論には、不登校や引きこもりの身体性を内在的に論じるこのモチーフが全く存在しない。 それゆえ彼にとっての去勢は、政治性の「脱色=忘却」でしかない。 言葉を換えれば、彼は社会の「内側」からひきこもりを論じている。参加できるかどうかの「境界」に立った引きこもり論ではない。

*3:政治性を抑圧することは、臨床性を抑圧することに等しい。 あるいはそれは、結果物の社会性(売買)だけにこだわり、生産過程への介入(素材化と組み直し)を排除する。 斎藤環岡崎乾二郎の対談を取り上げたが(参照)、もちろんこれは、斎藤環だけの問題ではない。

*4:本人がそういうナルシシズムに浸るのは、政治性の脱色にあたる。