お互いが 《引き出し屋=監禁屋》 になるのではなく

斎藤環氏の引きこもり論は、カフカの「掟の門」から引き出そうとするが(参照)、

    • 門をくぐる前の状態を「ひきこもりシステム」としてメタに描いて終わり、
    • 門をくぐった後の《社会性の帝国》については、単に順応するしかない。

門の前についてもあとについても、実際の関係性を創りだす制作過程を主題にできない。役割もメンタリティも、すでに固定された作法を反復することしか許されていない。(「患者」としておとなしくし、彼と同じ言説パターンを踏襲するしかない。これがマッチポンプになっている。)


医師・学者・役人の引きこもりを支援するために、実際の引きこもり問題が存在することになっている(彼らに業績機会を提供し、仕事のロジックを肯定してあげる)*1。 ひきこもり問題を悪化させる考え方や関係性に同意しなければ、発言が許されない。 この状況全体を “治療” する、そのかたちでの社会復帰が持続すればよい*2。 そういうかたちでなければ、誰かの強引な引きこもり(周囲を巻き込んだ監禁活動)に合意することにしかならない。




「引き出し屋」は、

    • (1)問い直しを許さない関係に巻き込もうとする*3
    • (2)メタ言説に閉じ込める

という意味で、「監禁屋」でもある。 その同じ作法を、ひきこもる本人が反復している。
自分で自分を監禁し、「早く門の向こうに出なければ」と空転する。――むしろ、すでに《揉め事=社会》の渦中にいるのだから、ここで調整を継続して死ぬしかない。




「中立的な支援者」はいないし、「中立的な弱者」もいない*4
ひきこもりに居直る人は、自分と同じ言動の相手を支えられない。 その時点で破綻している*5


意識と承認の生態系の一部分として、自己治癒をおこなう――そういうかたちをとる以外に、ひきこもり問題をうまく主題化することはできない。こうなってしまえば、「ひきこもりの経験があるかないか」にこだわることに意味はなくなる*6
「メタ言説」と「当事者発言」への分解*7は、それ自体が引きこもり的監禁であり、そんなものが批評的に追認されてはならない*8。 《批評=治療》は、反復される言説と関係性の作法それ自体(生態系の病んだロジック)を主題化し、別の社会性を試みなければ。


柄谷行人らの「NAM」も、ゼロ年代のロスジェネ系も、私の身近の試みも、すべて中間集団で失敗している。 知識人も支援者も、身近な関係だけは主題化させない。それを話題にすれば、「反社会的」とされる――私はここに抵抗している。 関係性を分析的に話題にできる社会性こそが必要なのだ。(ここで知的言説は、ディシプリンの単なる踏襲ではなく、関係作法の提唱として現れる。)


本当に重要な境界線は、「ハイカルチャー/ローカルチャー」ではなく、《表/裏》にある*9。 これをシャッフルする取り組みがなければ、社会復帰事業は、抑圧的な関係作法の強化に等しい。(表舞台にあがることは、水面下を隠蔽することで成り立つし、それでよいとされている。)




弱者役割に還元された「当事者発言」は、以下のいずれかで終わる。

    • (1)見世物になる
    • (2)提示した実態を恣意的にピックアップされ、政治的印象操作に利用される

「吐露」したところで、弱者には大したスキャンダルなどない。 本当のヤバい話は、むしろ「健康な社会人」や実権を握る者にこそある。――ここを話題にし始めると、弱者は沈黙させられる。
当事者というなら、体験されたことの関係者全員が素材化されねばならない。 弱者役割を与えられた者だけを舞台に上げるのは、そうすることが「健常者」にとって都合が良いからだ。



*1:専門家の幼児性が、ひきこもり問題のネックになっている。

*2:それは内部告発など、緊張を帯びざるを得ない。だからますます排除される。

*3:支援者本人の関係に巻き込むのでなくとも、連れ出された先にあるべき関係性については、関係作法を問い直すことは許されていないし、その問題を言説化することが認められていない。 「何人かの仲間ができるよう努力してください」とメタ目線の課題が口にされるだけで、「そもそもこの時代に関係性はどういう作法で営まれているか」「どういう作法を目指すべきなのか」が主題化されない。――むしろ、話題にした瞬間に彼らの信仰前提に抵触して激怒させてしまう。 ⇒言説化されないままの関係作法が最大の問題だし、それを言説化する営みこそが新しい関係作法になり得る。(それができないから、いつまでたっても関係実態が隠蔽される。その「隠蔽」という陰湿な作法こそが押し付けられている。ここに引きこもり問題の核心がある。フロイト的抑圧は、関係性の場面でこそ問い直されなければならない。)

*4:「この人だけは大丈夫」という支援者はいない。 また、自分も周囲を監禁している。(「自分だけは違う」と思う人は、この問題が理解できていない。)

*5:ひきこもりの全面肯定」は、お互いの意識と関係性を支えるロジックとして破綻している。

*6:「偽ヒキ問題」は、役割に落とし込む差別と裏表にあたる。逆にいうと、「自分は引きこもりだ」という役割固定で不当な特別扱いを得る者がいる。ここでは、役割固定がナルシシズムや不当な権益に利用されている。ひきこもりを悪化させるこういう関係状況を、学者や医師が当然視しているのだ。

*7:NHKブックス別巻 思想地図 vol.1 特集・日本』p.7、東浩紀

*8:現状では、言説の生産態勢それ自体が、苦しみのメカニズムを補強している。

*9:消費文化やオタク・サブカル系へのコミットメントは、まずは「当事者発言」的な曝露機能を持ったかもしれない。しかしそれも、多くはナルシシズムの吐露でしかない。当事者ナルシシズムは、社会性をめぐる実態検証を何も保証しない。つまりそこでは、それなりのしかたで《表/裏》の作法が固定されたままになる。