私は、硬直した正当化実務の問い直しを「分節」や「記述」と呼んでいます。 単に順応的な分節は、記述事業に一体化しているので、自分の従事している秩序への問い直しが封殺されてしまう。 しかし酒井さんは、そのことにも利点がある、と指摘されたのでした(以下、強調は上山)。
「EMは、これらすべてについて、やり方を変えずに(言い換えると 首尾一貫したやり方で) 検討を進めよう という方針をとることができる(/要請される)」というのがそれです。
- 上山さんの表現を借りるなら、これは〈オブジェクト水準/メタ水準〉に、同じやり方で接近する、ということを意味するでしょう。そして逆にいうと/そうであるからには、上記のような活動をエスノメソドロジストが おこなった場合に、「それは研究とは異なる活動である」とか「それは研究以外のものである」などと述べる必要はまったくないということをも意味しています。
そして、ふつうはそうはいかないのです。そのことは、いわゆる「社会学の社会学」などと呼ばれる議論をみればわかります。 「自己の活動への反省」は、自食的・自家中毒的な試みとなることが多く、その多くは
- 具体的な分析によって自己理解を促進するというよりは、そのかわりに議論を「道徳化・倫理化」して先鋭化することによってかえって無力となっていき、
実質的には研究活動のあり方を変えていくことには ほどんど役にたたない場合が多いように思われます。 (「論点3」)
《制度を使った精神療法》にもそのまま問える事柄です。
特に赤で強調させていただいた部分が、私の問いとの関係でよくわからないのですが、とても気になります。
たとえば、貴戸理恵氏の事案で私がおこなった分節(参照)は、エスノメソドロジーと関係があると言えますか? 私が問題にしたい《秩序》は、たとえばあのような意味での《メタ/オブジェクト》です*1。
私にとって、この《メタ/オブジェクト》はこれ以上ないほどリアルなので*2、
私の目標の一つは、この論題に、日常生活レベルでの市民権を与えることです。
「ひきこもり」の場合、当人やそのコミュニティの周辺に、さまざまなエージェント(支援者、医療関係者、研究者などなど)が登場します。そして
- [B] その人たちもまた、「ひきこもり」のひと(たち)を記述・対象化する
わけですが、それらのさまざまな記述たちについても、上で述べた事情──そのすべてがいちいち誰かに苦痛を与えるわけではないだろうこと──は あてはまるでしょう。それはそれとして、ここでさらに、上山さんが 〈オブジェクト/メタ〉なる図式を ウルトラに抽象的なやりかたで振り回しつつ語ろうとしている事柄を、もっと抽象度を落として語ることが出来るようになるはずです。 (「d.提案」)
「誰が誰を記述するか」と同時に、「秩序を話題にすることが禁じられている、それが秩序の重要な要素の一つになっている」という問題意識を、付け加えさせてください。
そしてそれを語ることは、エスノメソドロジーの事業に内在的であり得るでしょうか。
関係実態を表だって話題にするには、制度的な記述手続きがあると助かります。そして、一般論でしかない社会学は、《目の前の関係》をかえって抑圧してしまう。――エスノメソドロジーは、目の前の関係を記述する制度的手続きであり得るでしょうか。 激怒への着手の手続きであってほしいのです。