順応主義者であるという逸脱

所与の学問制度に乗っかるだけで引きこもりを論じることは、むしろ許しがたい逸脱です。 順応そのものが問題なのに、その専門家を自任する人たちがベタな順応者でしかないとは、どういうことなのか。 【⇒エスノメソドロジーは、順応そのものを主題化する議論ジャンルや、それを主題化できる専門家の教育プログラムであり得るでしょうか。】


ひきこもり問題から析出されるモチーフは、ひきこもりという社会問題に幽閉されるものではない――というより、そうやって幽閉しようとすること自体が害悪です。 参加現象が反復する形式そのものが問い直されるし、逆に言うとそういう議論のできない人には、この問題を内在的に扱うのは無理です。 論じている本人が自分の参加(正当化の秩序)を検証できないのに、どうして誰かの参加を論じられるのか。
「アカデミズムに順応している自分が、逸脱者である引きこもりを論じる」みたいなあり方は、それ自体が引きこもりの苦痛機序を再生産しています。


既存の対人支援は、「強引でもいいから繋がったことにしてしまう」ことであり、一度そこで繋がりらしき錯覚ができあがれば、原理的な問い直しは排斥され、古臭いままの関係作法が居直ります。 ⇒ つながり方そのものへの問い直しを拒絶する場当たり的な《仲良くなろうごっこ》が空しく繰り返される。


ひきこもり経験者の一部は、社会復帰後にはむしろ極端な体制順応者になり、権威主義的な言動をとり始めます。 彼/女らにあっては、「とにかく自分が順応者になること」が目指されているだけであり、私が強調しているような《当事者的な問題化》は最初から排斥されています。 【彼らは、カテゴリー的に自分を「ひきこもり当事者」として恩恵をむさぼろうとしたり、逆に過剰にそれを隠そうとするばかりで、《カテゴリー設定が居直ること》そのものを考え直そうとはしません。】
そして考えてみれば、支援者や知識人じたいが、デリケートな当事者化を拒絶している。 私は、全員を当事者化するのに協力してもらえるような手続きや方法論を探しています。


【「」につづく】