特異的な専門性

社会的ひきこもりに関連して、既存の「専門家」がダメだとすれば、自分で専門性を作らなければ。


医師・支援者・文筆家としてプロを名乗る人たちの議論に納得できないなら、それに反論するあなたは、プロとして力量を問われる用意ができているか。 ただ観客席でブーブー言うだけなら、「プロではない」と言われても仕方がない。



「ひきこもりの経験者」として規定された人たちは、これから大きく3つに分かれるように思う。

  • (1)幼児あつかいされることで居場所を確保しようとする人たち
  • (2)既存の専門性や共同体への順応主義・権威主義
  • (3)独自の問題意識で、関係性や専門性のスタイルを試行錯誤する

(1)と(2)は両立し得る。 いずれも幼児的で、問題意識として自立していない*1


私は(3)の一部としかご一緒できないし、この方針は「ひきこもりの経験者」に限定されるものではない。 むしろ(3)を制度内でやってくださらないと、状況は変わっていきようがない。

    • 【2010年10月23日の追記】: 病気や障碍の診断を受けられるケースについては、事情が異なります。ここで慎重に考えなければいけないのは、鑑別診断そのものが政治的判断であり得ること(具体的には社会保障の問題になります)。 また、「メタ目線による診断」そのものが、主観性や関係性の事情を悪化させることを論じなければならないのですが、現在の専門家言説にはそれができていません。 ▼役割理論や鑑別診断について悩むことは、専門家言説が不可避的に担う臨床上の功罪を論じることでもあるのですが、いまは専門家を名乗る医師や学者が、自分の言説や関係性のスタイルに自覚的になれていません。メタ言説へのベタな信仰状態しかない。(医療目線の権力に自覚的であるはずの知識人たちも、なぜか引きこもり問題については黙認状態です。) ▼現状は生物学的精神医学が主流ですが、生化学的な観点にかぎっても、精神医学の診断基準は、いまだ「科学的根拠をもっている」とは言えない状態にあります(参照)。



いちど引きこもった人は、差別的に見下されるし、慢性的な悪意に晒される*2。――そういう社会に復帰することを要求され、できなければ「お前が悪い」。 年もとっているし、ふつうに考えれば復帰のチャンスはない。


独自の怒りや問題意識に固執し、そこでプロになること。 そういう回路を通じて、少しでも状況を良くしてゆくこと。 それ以外に、努力のしようがないと思うのだが。



【追記】: いただいたコメントより

b:kiyoto01 同意。まったくそのとおりなのだが、この場合の職業的プロフェッショナルとギルドの形成とは切り離せないのではないだろうか。そして、ギルドの形成とは問い直しの連鎖の停止による標準化の実現と同義なのでは?

おっしゃること、本当に決定的です。
問い直すことは必要でも、何もかもぶち壊しにしてしまうようでは、持続的な仕事ができません。また「問い直し」は、それ自体としては恣意的であり得るし、集団の中では「その人の意見」にすぎない。
難しいのは、既存の知識人言説や支援事業は、「決まり切ったパターンに順応させること」ばかり考えていることです。(若者自立塾もそうでしたが、反復練習で馴染ませようとするだけで、身近な関係への問題意識はまったく顧慮されません。)
ひきこもりの〈ゴール〉―「就労」でもなく「対人関係」でもなく (青弓社ライブラリー (49))』に登場する G さんのように、支援対象者の一部にも、「元気になるとは、ルーティンを覚えることだ」と気づく人も出てきています(参照)。
問題は、順応主義的な要求だけが支配的になっていることです(保守的なケースばかりでなく、左翼勢力においても、共同体の作法はパターン化され、順応的に振る舞うことが要求されます)。 ですから少なくとも、「ルーティン化とその問い直し」が、関係性や職業生活について主題化される必要があると思います。
申し上げにくいのですが、じつは上記の(1)と(2)に固執する人たちは、(3)のありかたを毛嫌いし、抑圧をかけてきます。 何らかの仕事をする以上、(2)の要素は無視できませんが*3、それと同じぐらいに、(3)も無視できないはずです。 (3)を無視することは、ひきこもり問題のメカニズムを無視することに等しい――私はそういう理解でおります。

    • 《問い直すこと》は、それ自体が固着したルーチンになります。 「おれは考えることをしている」「自分を見つめ直している」がアリバイとなって、でも同じパターンをぐるぐる繰り返してるだけ。 結果として嗜癖やゲームしかないなら、周囲に迷惑をかけてまで維持する価値はない(方法論が分からないから固着している)。 それなら、別の動きに組み替えてよいということになります*4。 問題は、その組み替えや編成に方法論がなく、既存のルーチンに巻き込まれるしかないということ。 もしそこに抵抗するなら、みずからの主張で戦いを始めるしかなくなります。




*1:権威性の必要な場所では「学者あつかい」を要求し、甘えたい場所では「弱者あつかい」を要求する。 いずれも役割同一的で、コスプレに居直る社会化でしかない。――関係性それ自体に取り組む成熟がまったく見られない。 ここには、役割や専門性それ自体についての問い直し(ひきこもりで最も必要なもの)がない。

*2:一時的にでも休むことを許されないというのは、それは本当に「全体のためになる規範」なのか?

*3:(3)だけをしようとする人は、孤立的に凶暴化するか、いずれにせよ陳腐に終わってしまい、あまり大したことはできないように思います。

*4:ここに必要なのは、ロールズやサンデルとも別の、動きのある正当化の方針です。 そしてこの、《正当化》の存在論とでも呼ぶべきものは、臨床的趣旨を内に含まざるを得ない――論じる自らが実演しつつ。 ▼「臨床は医師の仕事」と思う人は、ご自分がすでに意識と関係性を生きていることを忘れています。 “臨床” のつもりがなくとも、全員がすでに臨床過程にある。 私たちは血の匂いのする意識をすでに生き、誰かに対してしまっています。