(2) ベタな順応主義の暴力と、動態的な反差別

昨日の続きで、やはりメモをまとめてみます。
特権的な身分固定は、政治的に不当というばかりでなく、ひきこもりの場合 “臨床上の” 害悪でもあるというのが私の理解です。 これまでにも「ひきこもり」というネガティブな呼び名が差別や自意識を助長する、と囁かれてきました。 私は、名称を維持する意義は認めたうえで、政治的-臨床的な方法論を検討しています。





制度を使った方法論では、適切に制度順応「しないこと」が求められる*1。 ベタな制度順応は、むしろ怠慢にあたる。 といっても、単なるルーズさではなく、順応というふるまい自体を柔軟かつ創造的に引き受けなおすことが要求されている。 従順さと批評的改編のタイミングや程度を決めるには、リアルタイムの注意力が必要になる。 メタに正義を標榜したり、イデオロギー的に反体制を叫んだところで、それ自体が硬直した順応のそぶりにすぎない*2


凝り固まった制度順応を「ファシズム」と呼ぶことは、許されるだろうか(要調査)。 本人の思惑を超えて不可避的にひきこもるしかなくなることは、「硬直した制度順応による自他への暴力」と言い得るかもしれない*3。 それをPC(Politically Correct)な言葉で肯定したり否定したりしてもどうにもならない。


順応しか許さない環境の暴力と、硬直して身動きの取れなくなった主観性の暴力。 この両者の不毛な対峙とは別の回路を探している。 ベタな順応と、ベタな逸脱しかないなら、物や制度に直接嗜癖するか、本人を特権化して隔離するしかない*4。――「順応による逸脱者」への対応において、対応する側自身の順応のあり方が問われる。


正当性の根拠をメタレベルのみに頼り、目の前の関係性を無視することにおいて、「ベタな当事者主義」と、「ベタなメタ理論」は補強しあう。 いずれも、自分の存在と役割に無時間的なアリバイを主張し、他者だけを告発する。 それを論じている自分の制度順応は絶対に分析されない。 単なるテリトリー確保は、獲得された領土を分析しない。


差別的な特権化を批判すると、「弱者の置かれた状況を分かっていない」と非難される。 しかし、弱者問題で本当に問われているのは、相手の苦境に対するリアルタイムの柔軟さであって、カテゴリー化(静態的な特権化)ではない。 公正さは、静止画像ではなく、動きの中にある。 PC的な特権化は、それ自体が差別を根拠に据えた方針であり、それゆえ容易に、「差別にもとづいた言いがかり」に姿を変える――というより、最初から差別そのものだ。 ▼たとえば私は、「童貞・ひきこもり」の分際で「女性」に話しかけることは、セクハラとして告発される可能性があるのだと、男性フェミニストから警告を受けた。


カテゴリーによる静態的特権化は、周囲を威圧する口実になっている*5。 上の例で、女性とひきこもりを置き換え、「ひきこもっていた男性に求愛されたら、女性には断わる権利はない」と言っても、今度はひきこもり側を特権化したにすぎない。 ここでは、リアルタイムの関係分析以前に、「差別的に特権化されるのは誰であるべきか」という固定的なイス取りゲームになっている。 お互いの関係にお互いがどう取り組むのか、という内側からの話が始まらない。 役割固定的なPC(Politically Correct)言説で相手を威圧することは、差別によって柔軟な対応を拒絶することにすぎない。 ここで「順応主義」とは、固定された差別を意味する。 それは目の前の関係を尊重せず、柔軟な再検証をこそ排除する。 理不尽な特権化の方針を批判する者は、つねに「反動」の汚名におびえることになる。


特権化された弱者による意思表示は、絶対化されてしまう*6。 ここで告発されると、対等な権利のもとに公正に検証される機会を奪われる。 この告発は、紛うかたなきスターリニズムの形をしている。 告発された側は、「自己批判」を強要され、粛清の危険に晒される。(弱者の特権化は、「プロレタリアート」の特権化と同形だ。)


弱者であること、傷ついていることは、“絶対的” 擁護の理由ではない。 必要なのは、公正な検証機会の権力をこそ強化することだ。 弱者であるという「カテゴリー」だけで直接的に支持するのではなく、体験を素材化する機会をこそ、必須の手続きにすること。 ▼支援者や研究者になるとは、つねに再検証を要求される「紛争当事者」になることを意味する。 支援者という身分があるから、弱者を守っているから絶対的な(メタ的な)アリバイがあるのではない。 私は支援者たちにこそ、ご自分の順応事情についての “当事者発言” を求めている。



*1:医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』p.240

*2:ドゥルーズが「革命」を口にしているのは、こういう問題意識だと思う(参照)。 革命を、達成されるべき順応状態として固定した瞬間に、「領土化する党派」になってしまう。

*3:ひきこもりでは、強迫的な順応が逸脱的な暴力に転じている。 クソ真面目であるがゆえの逸脱。 そのクソ真面目さは、ナルシシズムの枠組みでもある。

*4:それも制度内に取り込まれた順応だ

*5:たとえば男性は、フェミニズムを標榜することで周囲の男性を威圧できる。 「俺は女の味方だから、お前は逆らうことを許されない。逆らったら、お前は女を差別しているということだ」。

*6:弱者をカテゴリー(存在)として絶対化する支援者は、集団的意思決定の手続きもなしに、支援対象者の声を「代表している」と主張し始める(参照)。 あるいは突然語り始めた “当事者” が、選挙もなしに「○○の声を代表して」語り始めても、やはり詐称にすぎない。 ▼それを踏まえたうえで、確信犯的に行うのか、それとも手続きを整備するのか。 法制化のプロセスにおいて、それが問われている。