(1) 紛争=症候は、社会的論点として受肉する

ここ最近考えていること、議論していたことを、ややまとまってメモしてみます。
努力のスタイルとその社会的編成が、私の努力の主題になっています。
ある問題を扱おうとするときに、そのアプローチの仕方そのものが、「問題」の一部分であることがある。





法律実務家は、紛争を通説と判例で考える。 それでは対応できない現象をオリジナルに考えたい人は、学者か立法者か作家か、いずれにせよ再考察を迫られる。 人をカテゴリー化して特権化するマイノリティ論ではなく、マイノリティに「なる」活動(参照)は、どうやって法的・政治的思考を整備するか。


科学の概念に言及しているものの、自分の努力が、通常の思考伝統や「科学(science)」とどう違うのか、きちんと説明できているだろうか。 趣旨を説得する前に、遂行的に実演してしまっている。 少なくともパフォーマティブなレベルで、ドゥルーズ/ガタリは脇が甘いと感じる(cf.『「知」の欺瞞』)。 ▼とはいえ問題となっているのは、環境世界から自分だけを切り離す「科学」やメタ言説への居直りそのものでもある。 「お前の概念操作は科学的ではない」という非難は、自分のその態勢自体が問題化されていることに気づいていない。 「主観性の生産(production de subjectivité)」*1の作法自体が問題になっている。――自分を正当化するスタイルは、歴史的な歪みや思い込みをもつ。 その「正当化の制度」が、個人の順応事情に深く影響する。 支援者自身が自分を社会化する限定的な作法が、支援の方法論を支配してしまう*2


近代的な順応スタイルに固着するのではなく、自律的・内発的な分節プロセス(マイノリティに「なる」動き)を中心に考えなければ*3。 とはいえこの分節過程は、ほかの「主観性の生産」とどうかかわるのか。 政治学や法学の思考伝統と、マイノリティに「なる」動きの関係を、考え直さなければ*4ドゥルーズガタリは、凝りまくった人文系表現に向かう前に、こういう議論をこそ整備すべきではなかったか。 ドゥルーズは、なぜ映画論なんだろう。 彼らの議論は、実務的必要との関係で不親切すぎると感じる。


「論点ひきこもり」というフレーズは、“症候的な” 必要をもつ(参照)。 メタな内容に収奪されることそのものが耐えられない(政治がどうこうというより前に、臨床的に)。 苦痛を味わう身体と、知的議論や交渉が分離不可能であること*5。 ひきこもりは、お互いを紛争当事者にしている。 その紛争に内在的に取り組むこと。 外部から「解決」しようとすることは、問題の一部(苦痛の共犯者)になってしまう。 自分の視線の暴力に気づかない視線を、ひきこもる本人までがやってしまう(その視線の暴力は、ひきこもりの形式そのものだ)。


ラカン派では、譲歩してはならない欲望の道を、「症候への同一化」として語る(参照)。 制度順応によって想像的自我を回復するのではなく、解消されることのない狂暴な欠如が、症候として生きられる。 私はここで、ひきこもりという紛争を、「症候的に生きられる論点の受肉として、社会的にとらえようとしている。 内発的・内在的な紛争の分節過程は、受肉した症候を内側から引き受けなおすこと。 論点=紛争をメタから対象化するのではなく、「解決」するのでもなく、同一化して内側から分節すること(終わりなき分節*6)。



*1:ガタリが主題化している。 単に「下部構造が上部構造を生み出す」という話ではなく、分節の労働過程を中心化し、そのスタイルをもんだいにしている。 『カオスモーズ』冒頭、『三つのエコロジー (平凡社ライブラリー)』p.22-3、p.78- などを参照。

*2:制度化された目線。 人を分類して何とかしようとする発想、そもそも「解決する」という発想の性質、ほか。

*3:労働過程を中心化する」とはそういうことだ。

*4:カテゴリーで人を分類する当事者論は、マイノリティ「である」という直接性の暴力に浸っている(抵抗運動においては、たいていこの暴力がカウンターとして利用されている)。 私は「当事者化」を、「素材化」という間接的問題化のスタンスで語っているが、これこそが人々に恐怖と防衛をもたらす。 私は、間接的な当事者論、つまり「素材化する当事者論」を提起することで、社会的に排除される形になっている(参照)。

*5:分節の強度と、「生きる意味」は別の場所にあるのではない。

*6:cf.「終わりある分析と終わりなき分析」(『フロイト著作集 6 自我論・不安本能論』p.377〜)