メタ的・客観的な語りに対して、ダメな自分語りがあるという支配的な理解。 じっさいそういう両極の生産様式しか見られないし、理解する側が、そういう両極しかあり得ないと思っている。 問われているのは、「どうやって自分はみずからをプロセスとして生きるのか」、その生産様式なのだ。 本屋に行っても、メタ的な知識と、ベタな吐露ばかり。 「客観的な知識」は、そこに入っていけない者を考えていない。 ただ澄ましてそこにいる。 それではひきこもりを、「入門拒否」を考えたことにならない。


自分で自分のことを考える、という “当事者” 発言は、「私のことを大事にしてください」という直接性への要求と受け取られる。 しかし、私が問題にしているのはそんなものではない。 私は当事者である、とは、「私は私の事情を素材にして考えてみる」という、そのワンクッションのことを言っている。 直接的尊重ではなく、素材化の間接性をこそ提唱している。 あなたはあなたの事情を素材化してもらわなければ、私だけが “当事者” として差別されて終わる。 「苦しんでいる人のために頑張るのが私のプライドなんです」などというのは、卑怯なナルシストの言い分だ。 正義の味方ヅラして、自分のことを棚に上げるな。 政策を論じれば、政策を論じたことになると思うな。


私が「制度を使った方法論」と、何年もかけた挙句ようやく出会っているのは、この素材化・間接化の1点にあたる。 弱者尊重の「左翼的な精神療法」でしかないなら、取り上げる価値がない。


みんな、メタ言説と対象化の、自分のプログラムを生きるだけになっている。 その固定された生産様式で業績を挙げるだけなら、「参加できない」というもんだいを扱ったことにならない、そのことがどうしても伝わらない。