ひきこもりについて、最も重要な論点
- 「努力すればするほどおかしくなってしまう」という執拗なメカニズムを、内側から扱える議論がない。
- 専門性をかこつ既存の議論は、主観性の構成という最も重要な論点を扱う能力がない(気づいてすらいない)。 なぜなら彼らには、自らの構成過程を対象化する方法論がないから。 自覚されないままの方法論で自らの業績と関係性を生きることしか出来ていない。
- 現実が現実であることへの戸惑いは、「自分がうまく構成できない」というかたちをとる*1。 それは気合いや科学主義で単に終わらせればよい葛藤ではなく*2、その「うまく構成できない」というそのこと自体をまず主題化しなければならない――みずからの構成過程に留意しつつ。
- 《主観性の構成》というテーマにこそ、政治性と実務性が集約される。生活や仕事のルーチン化は「構成過程のパターン化」である。ひきこもり問題の政治性は、主観性の構成過程がどういうスタイルをとるのか、それがどういう手続きで社会化されるのか(流通と承認)にあるし、実務的な解決はこの部分に賭けられている。
- 詐称されたメタ言説に自閉する言説ばかりになり、それが方法論として自覚されることすらない状況は、政治的貧困の症状といえる。できあがった言説は、政治性抑圧の実演であり成果となっている。自分がどういう仕方でどういう葛藤を処理したかを報告することすらできない方法論に、ひきこもり問題を内在的に扱う能力はない。
- 主観性の方法論は、関係性の方法論と直結している。 思想と臨床の言説が、この論点を扱う能力をもっていない*3。