「主観性の構成」 と 「中間集団のアレンジ」

「本人のせい」と「社会のせい」の両極しかない。 こんな発想のままあれこれ論じても、問題のメカニズムに加担したままだ。 本当の問題は、主観性と集団のありかたを同時に考えるところにしかない。――つまり問題は、個人だけでも社会だけでもなく、《関係性》にある。 つながりがどういう前提と作法で営まれているか。 「医者だから偉い」とか「当事者に逆らうな」まで含め。


自分がどういう作法を生きているかを誰も主題にせず、業績を挙げたり正義の味方になったりすることしか考えていない。 メタ言説の誇示しあいっこで関係性がマネジメントされる*1。 ふんぞり返ってひきこもり支援を論じながら、身近な関係はひどい――それが当たり前だと思われている*2


医師や学者は、社会問題を自分の業績のネタにする。 本当に必要な問題意識が学界のディシプリンに合わなければ、自分の業績のために “学問” を優先させる*3。 社会性について真剣に考えるより、既存作法内での業績競争が優先される(現状の領土支配の作法に従わなければ、私の努力は「業績」にならない)。


私は仲間を作ろうとして失敗し、苦しんだ。 ひきこもりの “専門家” たちは「身近な仲間ができればいい」というが、そう語る自分が紛争当事者だったりする。――健康な人ですら仲間など作れないのに(参照)、「つながりをどう作るのか」がいつまでたっても主題化されない。 ご自分たちの業界作法を反復するばかり。


社会化は、つねに出会い損ねている、失敗している*4。 ならばそれを素材化して検証すれば良いではないか。 「成就した」はイマジネールな惑溺でしかないのに、それを誇示する語りしかない。 支配的な正当化の作法がゆがんでいるなら、個人を社会化する事業は歪まざるを得ない。


考えてみれば、《社会化の作法を変えること》は、それこそが革命と呼ばれるものではなかったのか。



【追記】

10月6日のエントリー後、ある社会学者のかたが、以下の引用文をメールで送ってくださいました(強調は私)

 われわれは新たな真理、新たな認識、したがって、新たな対象の定義の出現と取り組んでいるのであり、これは以前に構成された領域とは断絶しているのです。これは、新たな学問分野がそれをバックグラウンドにして浮かびあがってくるような領域といってもいい。すでに占領された領域、それはつまり、自分はそのなかで場所を占めることができないような、イデオロギー的領域のことです。 […] ギリシャ数学でも、ガリレイ物理学でも、マルクスの社会理論等々でもいいですが、こうした新たな科学的分野が登場する際には、われわれは人類の文化の歴史のなかに同種の現象を観察することが出来ます。認識論的切断、つまり先行する領域との連続性の切断と取り組めば、それだけわれわれは、現実的潜在力であるかのように、みずからの出自である領域を転覆させる能力をみずからのうちに内包する切断、という現象と取り組むことにつながるのです。 アルチュセール精神分析講義――精神分析と人文諸科学について』pp.117-118)



ブログあてのメールや、ブックマークで頂くコメントにはほとんどお返事できていませんが、
大きな励ましをいただいています。 ありがとうございます。



*1:そしてあとはひたすら「フレンドリー」というわけだ。 “フレンドリー” になればなるほど、関係性は再検証を禁じられる。

*2:それが《社会性》に期待される現状のスタイルということだ。

*3:もちろん本人だけのせいではなく、「そうしなければ論文が通らない」という集団的事情がある。 ここでも、個人だけを責めるのではなく、集団事情を生態学的に検討する必要がある。

*4:ラカンの「出会い損ね」や「性的関係はない」は、《個人の社会化》というテーマでも論じなければ。 《売れた=商品化された》だけで「出会えた=関係に成功した」と見なし、それを事後的に誇示する語りしか今は見られない。