メタ言説への嗜癖と、語用論的拘束

    • 医療・ケアや政治における、名詞形の氾濫*1。 名詞形こそが妄想の原基*2
    • 物質・過程・関係」の三類型だけでなく、医療や学問の言説それ自体が嗜癖化している。

これは、現代の社会化がそういうスタイルで為されることと関わる。
嗜癖を扱う言説には、自己言及的チェックが入るべき(その言説自身は、どうやって社会化されているのか?)。 「科学」を標榜する言説は、内容のスタティックな正当性ばかりを検証するが、その最中には、おのれがメタ言説に嗜癖していることは忘れられている。
論理学的・静止画像的な自己言及の問題ではなく、肉として生きられるプロセスの問題*3


主観性が嗜癖的に委縮することと、「名詞形に支配された関係性」を、語用論として展開しないと。
だからガタリを参照できる。

現実の《処理》

意識による処理、集団による処理、市場による処理、制度的な処理
きりはなせない
ローレンス・レッシグは、規制のモードとして「法・規範・市場・アーキテクチャ」の4つを挙げているが*4、もうひとつ、語用論的拘束がある。たとえば名詞形が氾濫すれば、私たちはいつの間にかそれに縛られて考えてしまっている。



*1:診断名、資格名、「当事者」など

*2:原基:「個体発生の途中で、将来ある器官になることに予定されてはいるが、まだ形態的・機能的には未分化の状態にある部分」(参照)。

*3:「論じているお前は、プロセスとして嗜癖を生きてしまっているのではないか? それゆえに生まれている問題を、お前は無視しているのではないか?」――この問題提起は、「私は嘘をついている」の論理構造に解消できない。たとえば学術論文は、記述の内容そのものは整合的でも、論考全体が「嗜癖の成果」でしかない場合がある。制度は、そうした嗜癖をこそ歓迎する。

*4:CODE VERSION2.0