これは、現代の社会化がそういうスタイルで為されることと関わる。
嗜癖を扱う言説には、自己言及的チェックが入るべき(その言説自身は、どうやって社会化されているのか?)。 「科学」を標榜する言説は、内容のスタティックな正当性ばかりを検証するが、その最中には、おのれがメタ言説に嗜癖していることは忘れられている。
論理学的・静止画像的な自己言及の問題ではなく、肉として生きられるプロセスの問題*3。
主観性が嗜癖的に委縮することと、「名詞形に支配された関係性」を、語用論として展開しないと。
だからガタリを参照できる。
現実の《処理》
意識による処理、集団による処理、市場による処理、制度的な処理
きりはなせない
ローレンス・レッシグは、規制のモードとして「法・規範・市場・アーキテクチャ」の4つを挙げているが*4、もうひとつ、語用論的拘束がある。たとえば名詞形が氾濫すれば、私たちはいつの間にかそれに縛られて考えてしまっている。