「主観的な位置標定の系譜」への書き込み

仏語版 Wikipedia の項目「Subjectivité 主観性」で見つけたフェリックス・ガタリの発言を、
工夫して試訳(以下、強調はすべて引用者)

 les phénomènes de lutte sociale, tels qu'ils se dégagent de l'histoire du monde ouvrier (et donc pas seulement à travers l'analyse des théoriciens marxistes) sont des processus qui s'inscrivent dans la généalogie des repérages subjectifs.
 社会闘争という現象は、プロセスだ。そのプロセスは、労働世界の歴史(それゆえマルクス主義理論家の分析を通してばかりでなく)から出てくるように、おのれを主観的な位置標定の系譜に登録する

    • 【敷衍的解釈】: 社会闘争は、単なる覇権争いではなくて、主観的な位置標定の様式そのものにおけるヘゲモニー争いとして生きられる。すでに決せられたルール内の優劣を競う以前に、「どういう努力様式が正しいか」の決定(=行政化)をめぐって、戦いがある。私たち一人ひとりは、その様式の争いをすでに戦っている。

出典は『Pratique de l'institutionnel et politique』となっているが、
これは『精神の管理社会をどう超えるか?―制度論的精神療法の現場から』の原書だ*1
邦訳から、同箇所の一文を引用してみる:

 社会闘争という現象は、労働世界の歴史から生じるものであって(だから単にマルクス主義理論家の行なう分析に従ってではなく)、それは「主観性を探知する試み」の系譜のなかに刻印された過程なのです(p.29)

ものすごく微妙、というかやや難癖に近いかもしれないが、
「les phénomènes de lutte sociale sont des processus qui s'inscrivent」 を、

    • 「刻印された」と受動・過去形にするか、「登録する」と能動・現在形にするか

に、それに巻き込まれる様式の違いを読みとれないか。つまりこの文章には、訳し手や読み手の当事者性を問い直さずにタッチすることができない。 「私はそのプロセスを生きざるを得ませんが、あなたはどうなんですか?」とこちらを振り返る内容になっている*2


主観性の生産 production de subjectivité に生じざるを得ない倫理的逸脱は、社会的には排除の危機に晒される*3。 逆に、避けがたい気づきを封印してようやく “達成” できた業績は、自分を内部化するために重要な仕事の機会を排除している。 プロセスとして生きられる「登録様式をめぐる争い」を、なかったことにしている。(それは意識的黙殺なのか、それとも最初から意識すらされないのか)


わかりやすい正義に主観性の生産パターンを固定して、あとは弱者擁護の言説を(まるで輪転機を回すように)量産すればいい、とはできない*4――固着した擁護フレームを反復するだけの人たちには、つねに生産過程にある主観性のモチーフを、切れば血の出る切実さで反復する必然性がない。(仕事をすることが、ごまかしの反復でしかなくなっている人たち)
「主観性の生産」は、おのれのパフォーマティブな参加実態が問われざるを得ない、いわば火傷せずには触れないモチーフだ。 メタに威張り散らすだけの知的業績や、わかりやすい左翼言説としてこの議論をする人たちには、根本的に疑念がある。



*1:とはいえ邦訳には、三脇康生による切迫した状況分析(二段組みで86ページ分)や、日本の精神科医へのインタビューなどが追加され、単に「フランス語原本を翻訳した」のとは別の作りになっている。

*2:引用部分のガタリの発言は、インタビューより。

*3:とはいえ、それが「倫理的特異化」なのか、「不当な居直り」なのかは、区別がしにくい。差別的な民族主義者ですら、おのれを「避けがたく倫理的な固執」と主張するだろう。(じつは左翼の多くは、そういう話しかしていない。)

*4:わかりやすすぎる正義確保は、論じ手じしんの自己保身の欺瞞だが、それが政治動員の枠組みとして利用されたりもする。