メタ言説への、解離的な居直り

ueyamakzk2008-10-17

★雑誌『ビッグイシュー第105号 発売中

斎藤環さんと私の往復書簡 「和樹と環のひきこもり社会論」 は、今号で最終回です。 最後は私で、『順応状態の完成より、手続きの整備を』
支援する側もされる側も、完成された順応状態を想定するのはまずい。 政治的にもまずいが、何より臨床的にまずい。 このポイントに照準し、最後まで全力でお返事を試みています(前号)。

支援する側が、ひきこもる人を「対象」として観察する。 支援される側が自分を “当事者” として、特権を享受しようとする*1。 双方とも、自分の目線や役割をメタに固定しています。 ひきこもる人がひきこもり論をすればするほどしんどくなるのは、こうしたメタ目線を保ったままだからで、支援者たちと同じ病理にはまり込んでいるわけです。 これを状況論として主題化しないと、何が臨床の核であるかが見えてこない。


ポストモダンとは、単にバラバラなのではなくて、分業の極限化(というメタ認識)を口実に、実はみんなが硬直したメタ言説に嗜癖する状況なのではないか。 そこで「真剣に考える」ことは、つねにメタに収奪されていきます*2
本当に必要なのは、分節という介入のプロセスを生きてみることです。 ナルシシズムのメタ的確保ではなく、自分を含む現実を素材化し、容赦なく認識してみること。 その認識のプロセスがそのまま社会参加であり、臨床のプロセスになっている。 認識は、社会参加の営みと別のところにあるのではない。 「認識」が、社会参加を指揮する、というのではない。 認識のスタイルがそのまま参加のスタイルであり、思想が生きられている。 だから参加のスタイルと認識のスタイルは、同時に批判される。(「思想が生きられる」というのは、難しい哲学者の名前を知っている、ということではありません。本なんか一冊も読んだことがなくても、すでに思想を生きている。それをこそ問題にすべきであって、「理論と現場を分ける」のは、徹底して間違っています。)*3

お金を「払う側」と「払われる側」の違いはあるし、サービス契約上も負わされる支援者の責任があるので、完全にイコールな役割ではありません。 でも、社会に順応するという振る舞いについて、すでに生きている関係を対象化し、分節して改編するのでなければ、いつまでたってもメタな認識に監禁されてしまいます。 これが、臨床的にどれほど害をなしていることか*4


私たちは、お互いがお互いの「環境」であり「手続き」でもあるのですから、この社会に順応するかぎり、いつの間にかある程度は “当事者” にさせられているはずです。 ところが斎藤環さんは、まずお互いの存在を純粋無垢な空間に固定し、そのうえでメタレベルの解離的言説をえんえん展開しようとする。 この雲上の会話に私が付き合わなかったことで、彼は議論を降りてしまった。

メタ言説と、それを容認するベタな関係以外を認めない、という斎藤さんのアクティング・アウト自体が、ひきこもりの背景となる解離的言説状況を体現しています。 逆に言うと、これは斎藤環さんお一人の問題ではないはずです。


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*1:ダメージを受けた個人への配慮は必要ですが、その判断自体がリアルタイムの想像力であり、固定された役割の問題ではないはずです。 ひとをカテゴリーに分類して話を終わらせる議論が多すぎる。

*2:自分のことを “当事者” ポジションに固定する人も、そのメタ的認識構図に固着しています。 単なるベタなメタと、単なるベタな当事者論は、解離的に同居している。

*3:ダメな支援者は、分析を問題にすると「私は現場にいるから」と言い、現場を語ろうとすると「私は理論的に考えたいから」と言う。 理論的考察と現場参加がお互いに逃げの場所になっていて、それぞれが無批判に放置されているわけです。 これが最悪です。

*4:「黙って順応する」のではなく、「分節の過程として参加する」――これが過激に見えてしまうのは、それだけメタな認識構図を当たり前と考えているからでしょう。