注目すべき活動はいくつも生まれているので、それらが遡及的につながって見えるような文脈づくりが要る。

散発的に「臨床、臨床」と連呼しても、発言がその場かぎりで終わってしまう。
苦痛緩和の活動が、批評的位置づけを必要としている(それがなければ、個々の活動は孤立してつぶれる)。 順応的臨床しかないという状況を、「与えられたフォーマットを反復するしかない作品活動」になぞらえること。 作品活動を社会に合流させるように、自分を社会に合流させる*1。 そのとき、多数派の流儀を作り笑いで反復するしかないなら、絶望しかない。



ひきこもりでは、自意識は苦痛メカニズムに関係している*2

しかし、それを「自己愛性人格障害」などと名付けても、名づける側の順応主義的ナルシシズムが問われていない*3
いっぽう多くの “良心的な” 論者は、カテゴリー談義に終始しつつ、「ひきこもりは自己愛性人格障害ではない」と論じる。 カテゴリーに居直る自分のやり口は問わず、相手を「そのカテゴリーではありません」と論じることを良心として誇示する*4。 すると、自意識やナルシシズムという苦痛の焦点そのものが問われなくなってしまう。 ここでも、「専門家の事情」が本当の問題を抑圧してしまう。 苦しむ人は、医師や学者の体裁を整えるために存在しているのではない。



苦痛の事情が、主観形成と集団形成の同時的主題化を強いている。

日本の知的言説は、それをどこまでも抑圧している。 知的活動の固定されたスタイルでいきなり集団形成に及ぶので、《党派性》*5がいつまでたっても主題化されない。
社会学は、成立した社会関係を事後的に扱うことはあっても、みずからの参加スタイルそれ自体は固定しているため、処方箋を出せない。 せいぜい病者役割や障害者役割に落とし込んでどうこうするだけ。



ドゥルーズ/ガタリが持ち出した「groupe」は、日本語でいうなら《党派》や《派閥》だ。

ドゥルーズガタリ論「Trois problèmes de groupe」が、なぜか「三つの問題群」と訳され*6、その誤りが指摘されないまま来ていることは、中間集団を論じられない日本知識人界の問題をむき出しにしている(参照)。
イデオロギーを誇示して正当性を確保するありかたが、原文の問題意識をつぶしている*7(いかにも「左翼的」だが、中間集団を主題化できていないのは、批判者たちも同じ)。
ところが引きこもり支援では、合流の持続そのものが課題になるため、知識人界の欠如が症候的に剥き出しになってしまう。 中間集団のもんだいに直面せずにいられる引きこもり支援はない。



*1:《社会化の努力》を制作過程になぞらえることは、単なる比喩では終われない。 結果物の社会性だけを問うところに、《商品化》に支配された社会性の実情がある。

*2:私が元気になってきたのは、自意識やナルシシズムから解放されてきたプロセスでもある(それは“自然に治癒”しているだけではない)。 たとえば、逸脱した本人だけを特権視する当事者論は、主体化のプロセスを自意識の方向にねじ込んでしまう。 間違った当事者論は、作業プロセスに有害だ。

*3:“専門家” じしんが、滑稽なまでに「診断項目に該当している」ことがある。

*4:“専門家” と当事者が、診断カテゴリーという関係フォーマットを問うこともせず、お互いのナルシシズムを慰撫して終わる。

*5:合流スタイルの集団的ありかた。 全員が党派性の関係当事者になっている。

*6:ガタリ精神分析と横断性―制度分析の試み (叢書・ウニベルシタス)』への、ドゥルーズによる序文。 フランス語を勉強して1年目の人なら、「グループの3つの問題」と正確に訳せる。

*7:ドゥルーズはまさにそのことを問題にしているのに。