関係に分析を実装できるか

臨床的趣旨と切り離せない、中間集団への取り組み(その意味でのソーシャルワーク)としての schizo-analyse。――そう連呼するだけでは、既存のダメ左翼と何が違うのか示せていない。


日本の知識人には、中間集団論が存在しない*1。 好みの西洋人をアイドルにし、硬直したイデオロギーの権威に祭り上げ、あとは粛清劇があるだけ。


分析と中間集団をまったく別のかたちで生きられるかどうか。
そこに勝負が懸かっている。


私はガタリに言及しているから、信奉者たちの党派争いに巻き込まれているのだろう*2。 だとすると、ガタリに言及しても、マイナスばかりになってしまう。 西洋知識人の名を口にするだけでアリバイを手に入れたと思い込む運動体質に逆らうためにこそガタリを参照しているのに、その言及がダメ左翼の恩恵になり、それどころか血で血を洗う分派闘争に巻き込まれるというのでは、何をしているのか分からない*3


私は、当事者的な分析をするからこそ怒りを買ってきた。 今後も、そういう分析を通じた関係性しか維持できない。 「ひきこもっていたから」とか「弱者だから」とか、「ガタリに興味があるから」とか、そんな理由は抑圧にしかならない。 「私とあなたは仲間だよね」と思う、その内実こそが問われているのに。


《つながりかた》こそが分析されねばならない。 相手を味方だと感じてしまった理由は何か。――この分析を必須とせず、いたずらに繋がろうとするからこそ、対人関係が不毛になる。 ひきこもり支援が、既存党派のオルグ競争にしかならない*4



*1:いじめ論の内藤朝雄参照)には、中間集団全体主義を「批判する規範」があるだけで、その規範を共有して生きられる関係そのものを分析しなおす(その分節プロセスこそが要となる)というモチーフはない。 関係を保証する枠組みが、「いじめ反対」という規範で固定されている。

*2:左翼の党派闘争についてピンと来ないかたは、「あさま山荘事件」の記録や、『中核VS革マル(上) (講談社文庫)』をご覧ください。 とはいえ「派閥争い」はどこの組織にも、ネット上にもあるので、これはむしろ《社会参加論》そのものです。

*3:これは、左翼が支持を失った理由の一端だろう。 党派的関係性が避けられないとすれば、その中身が問われている。 ▼親密圏には、権力「批判」の同意確認はあっても、自分が押し付けている権力のメカニズムは分析されない。 そのことの深刻さがまるで受け止められていない。(もちろんこれは、左翼に限ったことではない。左翼を攻撃している知識人にも、中間集団論はない。ところが引きこもり支援には、中間集団論こそが必須なのだ。)

*4:行政お墨付きのひきこもり支援も、そして引きこもっている本人も、自分たちが何を要求しているかを分析しない。