触媒労働と、「ひきこもり的労働」

1985年のガタリ来日時、全共闘の残党組を「愚鈍な左翼」とバカにする浅田彰と、ベタな活動家であろうとする平井玄のあいだに論争があった*1ことを受けて:

 浅田も平井も、その後ガタリが期待したような分析装置=触媒装置(analyzer=catalyzer)を演じることなく、それぞれの役割へと引きこもってしまった。毛利嘉孝ストリートの思想 転換期としての1990年代 (NHKブックス)』p.55)

私はこれを逆向きに、臨床的趣旨をもって考えている。
ひきこもることしか出来なかった人は、単に順応するのではなく*2
《触媒》になる活動を通じて元気になれないか。


上の引用箇所に続いて:

 分析装置=触媒装置 は、ポップカルチャーの無意識の中へと移行していったのだ。 (p.55)

ガタリの強調する触媒機能は、辛抱強い分析に宿るものだが、
それがポップカルチャーの「無意識の中にある」とは?――「読者たちは、自分のリアリティを漫画や歌に求めるようになった」という話か。
だとすれば、それは私が参照したい《分析=触媒》論ではない。

    • 《無意識/触媒/分析》の理解をきちんと論じるだけで、ドゥルーズ=ガタリと単なる文化研究の違いを説明できるように思う。 当事者的な分析が無意識の労働であり、その分析プロセスと生産物こそが触媒的なら、そのプロセスにこそ非日常の居場所を探さなければならない



ベタに多様性を肯定するのは、むしろ自分をメタに鎮座させる分析にあたる*3
アカデミズムの権威に対し、「ストリートの思想」を連呼しても、自分の実態への分析*4がなければ、アカデミズムの居直りに対して、別の居直りをぶつけるだけになる*5

    • 多様性を肯定するだけの議論には、主体化のプロセスそれ自体が硬直している、という臨床的な着眼がない*6。 それゆえ、いつまでたってもマッチポンプ的な優等生ごっこにしかならない。(そういう議論を、ひきこもる本人が模倣・反復してしまう)




*1:東京劇場―ガタリ、東京を行く

*2:それは組織や関係に引きこもることでしかない

*3:観客席からの嗜癖的熱狂は、分析的生産者としては固着であり、無意識の生産性はむしろ抑圧される。 ⇒ 分析的な熱狂と、「嗜癖的消費の固着」を分けて論じなければ。 多くの「分析」は、作品への嗜癖を再生産するナルシシズムでしかない。

*4:生産的無意識による、やむにやまれぬ分析。 「言葉にせずにはいられない理解」。 それを、触媒的でデモーニッシュな労働と見なせるか否か。 そうした分析こそが《現実界》として、排除されがちなのだ。

*5:触媒化を目指す分析作業は、おのれにとっての臨床過程でもある。

*6:大文字の正義を掲げた活動家は、ご自分の主観性のありかた(=つながりかた)を固定しているために、ひきこもりを内在的に論じる能力がない。