作家の仕事としての、《つながりをつくること》

同時代に見られるつながり方を踏襲するのではなく、つながることそのものを原理的に考察してしまうと、簡単にはつながれなくなる*1。 つながるというのは、固定的なナルシシズムのスタイルを共有することか。 維持されたナルシシズムを破壊にかかる、そういう作業に入らざるを得ない体質の場合、どんなつながり方があり得るのか。
相手の分析の独立を保証するよりも、ナルシシズムを保証する信仰対象を与えたほうが喜ばれる。――ガタリは「分析装置=触媒装置(analyzer=catalyzer)」と語ったが、今は分析が、触媒というよりは嗜癖の対象になっている。
作家の役割は、ナルシシズムを保証することではなくて、降りかかるナルシシズムの破綻から目をそむけないことではないのか。 「ナルシシズムの確保に向けて書く」ことは、恣意的に利用可能な消費財をつくることでしかない。



*1:というか、実は「つながりを考察する」ことが、それ自体としてつながりと呼べるものになるかどうかも怪しい。