労働過程として生きている

目の前の商品は、私たちに《つながりかた》を押し付けている。 私たちの一人ひとりも「生産物」*1であり、私たちが接するときのお互いの態度も、「相手に直面させる生産物」にあたる。 モノとしてばかりでなく、「プロセス」という形でも、私たちは「自分という生産物」を見せている。
プロセスとして見せられた生産物は、生きた労働としての相手を生産過程に巻き込む*2。 人間関係が、作動中の労働条件になる。――私たちがお互いに示す語りのプロセスは、それ自体として、《つながりかた》の提示と押し付けになっている。

陳列された商品と関係を持とうと思ったら、私たちは彼らのナルシシズムにつき合ってあげなければならない*3。 結果物である身体の誇示につきあい、ある料金を支払う。 「きれいですねー」と感情労働までして。――そこで私たちは、その物にぶつけるべき生産態勢を、つまり「努力のスタイル」を、支配されている。 私はこの無自覚な、いつの間にか決まってしまう支配を問題にしている。


周囲に、ある傾向の生産態勢の主体*4しか存在しなければ、私だけが別の生産態勢を示せば、排除される。 そこでは、「結果が間違っている」というより、「プロセスが異常」になる。 ▼リベラリズムや歓待を標榜する者にとって、他者の多様性は「商品の多様性」でしかない。 彼らは、「商品=結果物」の多様性を全肯定するが、そうふるまっている自分じしんの生産態勢への分析は拒否する。 いわば彼らじしんが、結果物同士としてナルシシズムを肯定しあい、その肯定しあいっこに乗ってこない生産態勢を示すと袋叩きにあう(or 黙殺)。

文章という生産物が特異なのは、それにつきあうことが、読み手の生産スタイルをとりわけ支配することだ。 「個人の社会化」は、丁寧であるかどうかよりも、《プロセスの態勢》にかかわっている。 分析という生産態勢を示せば、どんなに丁寧な物腰であっても、「社会性がない」とされかねない。

人間関係やコミュニティを、資本論、とりわけ生産過程論を参照して理解すること。



*1:多くの人たちの労働の成果

*2:「生きた労働」は、マルクスの用語(参照)。 彼の「生きた労働」「主体的 subjektiv」といった言葉づかいには、実存主義的な含みがない。 これは、意識過程や人間関係そのものを労働過程として理解するために、どうしても外せない決定的なポイントだ。 「生きた労働」は、客体的労働条件としての「死んだ労働」に対比させられている。 つまりそこでは、可能態としての労働が問題になっており、「死んだ労働」とは、「過去の労働過程の成果」にあたる。 生身の人間ひとり一人は、過去の労働の成果としては「死んだ労働」だが、生身と一致した可能態の労働としては「生きた労働」であり、覚醒中の私たちは常にその両者の一致における活動態(労働過程)にある(これがマルクス唯物論的な弁証法だ)。 つまり、私たち一人一人において、死んだ労働と生きた労働が反応プロセスを実現しているのであり、そういう一人ひとりがあい対することで、プロセスへの支配関係が生じる。 いわば、「現場監督をともなった資本」のようにお互いが機能してしまう。 ▼「生きた労働」=「丸裸の存在」として、貧困状態にある個人を「生きた労働」と同一視している議論は、すべて間違っている。 それは唯物論的な労働過程論ではなく、ただイデオロギー的に告発しているにすぎない。

*3:多くの言論人は、そういう「商品」としてみずからを誇示している。 彼らの自己呈示の仕方(その成功のあり方)そのものに、現代の《社会化》の集団的な style が示されている。

*4:この「主体」という言い方が、またしてもサルトル的な実体になってしまう、そういう表現しか見つからないことに困惑している。 私はここで、subject をどこまでも《生産過程 process》として検討している。 私たちが直面する他者は、つねにプロセスであり、労働の実現過程にある。 ガタリが「主観性の生産 production de subjectivité」という表現にこだわったのは、この意味だろう。 そこで本当に問題にするべきなのは、《生産態勢 style》だ。 「制度分析 analyse institutionnelle」は、結果物の提示であるより前に、生産態勢(style)の提案になっている。 プロセスの style の提示が、そのまま臨床上の方法論の提示になっているのだ。