「人間関係」は、それ自体として生産諸関係
意識そのものが労働過程であるなら、個人の社会化は、生きられた労働過程の社会化として語り得る。
現代の労働過程は、商品が売れたあとになって遡及的に「有意義だった」ことが確証される。 作ったものが売れなかった時には、「あのプロセスには意味がなかった(仕事ではなかった)」と位置づけられる。
それぞれの意識が主観性そのものの生産過程*1であるなら、いわゆる「人間関係」は、それ自体として生産諸関係である(参照)。
ひきこもった状態では、主観性の生産過程(production process of subjectivity)が、主観性それ自体の消費過程と一体化している。 そのプロセスは最中には《肯定=消費》されていても、事後的には「意味がなかった」とされる。 雇用労働では逆に、労働力として消費される最中には、おのれの消費過程ではないが(疎外された労働)、結果物が売れれば、「社会的に意味があった」とされる。
自分を失わなければ社会的に死ぬ。 自分を失うことでしかし、それはただ使い捨てにされることでしかない。 ⇒ 「社会的に意味づけられること」が、消費財になることでしかないか。 主観性の生産様式(mode of production of subjectivity)そのものに、関係性のあり方への工夫のしようがないか*2。
自分のいる場所を素材化して分析してみるという労苦(参照)は、体験したいきさつを労働条件としながら、単に疎外されたり、単に自閉的に消費するのとは別の仕方で、自分をバラバラに解体しながら、公共的趣旨をもった労働過程を生きている。
――とはいえしかし、その外部性はどう担保する? 商品生産においては、生産過程の外部性は市場が担保する*3。 プロセスそのものを中心化する制度分析では、そのプロセスは自閉的に居直るのではないだろうか。 ⇒集団的な方向性をめぐる意見対立に、どう決着をつけるのか。