インテリごっこの奴隷根性

悪質さは、自分が実際に生きている関係性を黙殺するところにある。 メタ言説さえやれば、すでに生きられている関係実態は分析しなくてよいことになっている(それが大前提なのだ)。 「自分はこれをやっているのだから、あとは褒められて当然。知的生産様式は維持したまま、その枠内でレベルの上下を言われるのはいいが、論点設計そのものは間違っていない」――この時点で間違っている。


「外国でも、学者ならヤクザと付き合ってもかまわない、だから日本でもOKなはず」――話が逆。 学問をやっていれば許されるという関係性の前提そのものが何を排除しているかを全然考えていない。 「外国で許されるから構わない」ではなく、むしろ日本で先鋭化した現象*1から考え直し、論点設計のあり方をこそ輸出すればよい。 問題への取り組み方をオリジナルに組み直さなくてどうするのか。 「西洋の学者がそう考えているから、私たちもそれに従えば正しい」という奴隷根性。


ディシプリンに従った時点で、最も考えなければいけないことについての選択は終わっている。


医学にしろ社会学にしろ、「役に立てばいい」という道具的な地位にしかない議論。 道具的地位しか許されない議論が目的の地位を主張するから、ほんらい目的のポジションにいるべき議論*2が踏みにじられる。 医学や社会学が目的の地位にいること自体が、《モノおよび「モノの関係」が至上で、主観性はそれに嗜癖するしかない》という関係ロジックを表している*3。 物質とディシプリンへの嗜癖症患者を量産するような《主観性と関係性のスタイル》しか知らないのだ。



*1:ひきこもり

*2:関係性そのものへの問い直し、再検証

*3:道具的地位にある議論で自分の内部性を確保し、本当に考えなければいけない論点を抑圧したうえで、サブカル・おたく談義に熱中する。 各ジャンルの制度的内部性は排外的に確保されたまま、解離的議論が続いてゆく。