「メタに立っているから発言してよい」のではない。

体験実態を素材化し、分節してみる――その生産スタイルをこそ呼びかけ、実演している。 論じる自分は、出発点ではオブジェクトレベルにある*1
関係責任という意味での当事者性が問われるのであって、「○○当事者だから特権化される」ではない*2


ひきこもりの研究者であれば、研究者として関係を生きたことにおける当事者性があり、いっぽう「ひきこもり当事者」側にも、そういう役割を引き受けて主観や関係性をマネジメントしたことにおける当事者性がある。 ここでは、お互いが同じテーブルで論じざるを得ない。 片方が「○○当事者」として特権化され、もう片方が「当事者じゃないから」と排除されるのではなく、双方に実態が問い直される*3


分析的な実況報告(その意味での当事者発言)こそが必要だ。 「メタな観察者によるひきこもりの報告」ではなく*4、そこに関わる自分ごと主観や関係性の実態を報告する、そのスタイルにこそ意義がある。
逆にいうと「ひきこもり」は、やむにやまれぬ理由によってそのようなスタイルが必要になる領域であり、そこから逆に、「ひきこもりとは何であるか」が見えてくる。 病気や障碍のように、役割で特権化することがうまく機能しない。



*1:「うまくいっていない自分」が出発点。 そこからどう分析を立ち上げ、主観性と関係性をマネジメントするか。 社会化のあり方自体が組み替えを要求されている。

*2:《役割の特権化》と《道具的メタ言説の特権化》は、共犯状態にある。 誰かを「当事者」扱いすることで、論じ手は自分の言説をメタ化できる。

*3:メタなアリバイ設定に居直ることが許されない。 「当事者のために頑張っている」とか「生命の無条件の尊重」とか、そのたぐいの政治的大義(メタ的正当性)を主張すれば検証を免除されるということもない。

*4:誰かをカテゴリー化して報告しただけでは、社会学や心理学の《与えられた事業趣旨》に殉じたにすぎない。