体験実態を素材化し、分節してみる――その生産スタイルをこそ呼びかけ、実演している。 論じる自分は、出発点ではオブジェクトレベルにある*1。
関係責任という意味での当事者性が問われるのであって、「○○当事者だから特権化される」ではない*2。
ひきこもりの研究者であれば、研究者として関係を生きたことにおける当事者性があり、いっぽう「ひきこもり当事者」側にも、そういう役割を引き受けて主観や関係性をマネジメントしたことにおける当事者性がある。 ここでは、お互いが同じテーブルで論じざるを得ない。 片方が「○○当事者」として特権化され、もう片方が「当事者じゃないから」と排除されるのではなく、双方に実態が問い直される*3。
分析的な実況報告(その意味での当事者発言)こそが必要だ。 「メタな観察者によるひきこもりの報告」ではなく*4、そこに関わる自分ごと主観や関係性の実態を報告する、そのスタイルにこそ意義がある。
逆にいうと「ひきこもり」は、やむにやまれぬ理由によってそのようなスタイルが必要になる領域であり、そこから逆に、「ひきこもりとは何であるか」が見えてくる。 病気や障碍のように、役割で特権化することがうまく機能しない。