当事化ゆえに、禁忌とされる技法論

私が必要とする論点は、抽象的に論じても趣旨が伝わりにくいので、具体例を出してみます。

ひきこもる人が継続就労に努めるとき、大きなテーマになるのが中間集団です。身近な関係をどうマネジメントし、どういう主観性のスタイルに合流すればよいのか*1。また日本社会の逸脱者として、どう身を守ってゆけばよいのか。――このとき、ヤクザという存在は、トラブルの折に触れて直面してしまう恐ろしい存在であるばかりでなく、みずからのサバイバルのためにも、重要な参照項となります*2。組織に入るだとか、そういうこととはまったく別に、主観性や関係性のスタイルとして、学べるものがあるかどうか*3。まさしく《技法》の具体例として、無視できません。*4


ところが上のリンク先に引用した宮台真司氏の書籍では、ヤクザとの関係は、「母親のおかげ」であり、うまくいったのは「結果にすぎない」。では、「結果として」うまく行っていない人は、どうすれば? あるいはトラブルに直面したとき、何に注意すれば?――何も分かりません。

ここで宮台氏は、ご自分が「いかに特殊に恵まれていたか」を話すだけで、現時点でうまく行っていない人が「どうすればいいか」には、まったく触れていません。裏社会との関係がどういうロジックで成り立っているか、そこにどんな困難が浮上するか――「結果にすぎません」で終わられては、扱うことじたいが許されません。これは、当事者性の根底的な拒絶です。一方的な自慢話においては、成功譚が神秘化され、事情のすべては「肯定されるため」にしか語られません。ご本人の加担責任は、一切検証されない。


宮台氏だけではありません。この話題は、扱っただけで関係者から排除されます(ということはその方々も、自分がどういういきさつで関係者であるのかを論じたがらない)。あるいはそもそも、表だって承認されたことになっているゆえに、問題としてすら認知されない。扱うべき問題が集団の前提に埋没しているがゆえに、全員が当事者責任を回避しており、話題にすることそのものが相手を「あなたも加担者ですよ」と名指すことになるため、リスクを伴います。――宮台氏は、「ヤクザと親密だ」と公言することで、《責任者の特定しにくい、暗黙の脅迫》に成功しているわけです。(責任者が不在にみえる脅迫が、集団のメカニズムに織り込まれている)


以前に私と交流のあった C 氏は、上記拙エントリでブックマークが集まって数日後、ご自身の情報サイトから、拙ブログをいきなり削除しています*5。交流のあった宮台氏への配慮で私のほうを「切った」のでしょうけれど、私は曲りなりにも関係を維持するには、この話題に触れてはいけなかった。疑念を持っただけで、排除されたわけです。*6


また宮台氏は、ヤクザとの親密関係を打ち明けた『日本の難点 (幻冬舎新書)』公刊から7ヵ月後、民主党参議院議員福山哲郎氏と、共著本を上梓されています→『民主主義が一度もなかった国・日本 (幻冬舎新書)』。 現職の国会議員が、ヤクザとの関係を公言する人物と本を出している。これは大きなメッセージです。*7


あるいはまた、新著で話題の柄谷行人氏は、10年あまり前には中間集団でトラブルになっていたはず(参照)。理論や「〜べき」でいくら素晴らしいことを言っていても、実際に中間集団を営むというのは別回路の問題であり、それを棚上げにして「理論」しかやらない時点で、肝腎のモチーフは黙殺され続ける。ひきこもりの問題は、まさにその黙殺された点でこそ悩むのです。彼らはついに引きこもり論をやらない*8


私自身ゼロ年代には、複数の中間集団で参加や運営を試み、そこでの挫折を通じて、問題意識の改編を余儀なくされています。

 身近な関係に食い込んだトラブルを、どうするのか。あるいはむしろ、身近な関係を無視する「理論」をどうするのか。

どうしてみんな、「なかったこと」にするのか。
話題として禁忌にされては、こうした問題に直面してうまくやれずにいる側は、たんに遺棄されます。中間集団は、どうやっていいか分からない人たちの集まりであり、不当な暴力の溜まり場になるしかありません。


私は、2000年に活動を開始した当初には、「保守や右翼に脅される」と思っていました*9。ところが蓋を開けたら、そうではなかった。脅しや差別・嫌がらせ等を受けるのは、決まって左派系です。具体的に関係維持を図るのが左派だからですが、そこに必ず、《主観性と関係性をどうするか、どうやっているか》の問題が生じるつながりの作法。これを他人事にできる人は一人もいないはずです。


どうして論者の皆さんは、この話題を避けるのですか。「いじめ」「中間集団全体主義」といった、規範との関係に置きやすいテーマ化はされても(内藤朝雄氏など)、実はそういう規範だけでは、人との関係はうまく行かないし*10それは必ずしも、関係者だけが悪いとも言えないのでは?――だからこそ、《技法》を論じる必要があるのではないのですか。


現状の不備がいきなり誰かのせいではないにしても、適切な技法の不在を無視し続けるのは、関係者の責任と言えませんか。それは、既存技法の既得権への居直りではないのですか。


今はこの話をしただけで、存在そのものを「なかったこと」にされがちです。しかし、発達障碍で取り沙汰されるような硬直や孤立を抱えつつ、既存の解釈枠にも入りにくい私のような者は、技法論を抑圧されては、自分の問題に取り組めません。
これは、

 みずからの当事者性に直面せざるを得ない側と、
 みずからの当事者性そのものを認めない

の間にある、階級闘争のようなものです。人のつながりは、まるで資本のように、あるタイプの主観性を押し付けてくる集団的脅威となっている。*11


成功した関係性は、みずからの技法ディテールを抑圧します。売れた商品じしんの自慢話のように、成功体験を絶対化し、相手にもそれを押し付ける。
ところが、作業過程に照準する技法論は、成功者か失敗者かを問わず、全員に再検証を迫ります。努力の方針、正当化の方針そのものに、やり直しを要求する。メタ的な規範論も、技法に関するアリバイにはなりません(「〜べき」を論じているから許される、というものではない)。


ひきこもりや発達障碍を論じるにしても、

 私はうまくやってるが、あいつらはうまくやってない

と、相手だけを異常視するような発想をしているのではありませんか*12。それはむしろ、苦痛や排除の加担者です。少なくともその可能性について、検討いただけませんか。


こうして論じていても、つねにジレンマに悩まされます。技法論の必要性は、「言葉だけで」擁護するのが難しい。言葉に引きこもることそのものに怒る問題意識でもあるからです(参照)。
そうすると、言葉に引きこもって正統性を確保する集団は*13、彼らの加担責任を剥き出しにする話題設計に、抵抗してきます。彼らとて中間集団の関与者ですから、他人事のように議論することそのものが抑圧なのですが、学問の体裁をとって制度的に承認された抑圧を解除するのは、なんとも大変です。


既存の学問言説は、

 作業過程そのものとして成り立つ主観性や、その相互的な関係である中間集団に関する、おのれの技法的関与

を黙殺することで成り立っている。様式を固定された解釈談義や規範論は、技法論を抑圧するのです。彼らは、ひたすら「メタで居るつもり」なので。


「弱者を擁護すべき」と、表看板の勇ましい人は沢山いますが*14、そうした規範で維持される人間関係の実態や、そこにある《技法》という論点は、なかったことにされます。ただ従うことを要求され、かんじんの部分は、水面下で処理される――主観性や関係性の技法論は、やっている人がいないどころか、禁止されています。ではいつの間にか「処理」される側は、どうすればいいのか。


支援をしてくださるというなら、どうかこのあたりの話を、忌避せずに取り上げていただけませんか。すぐに解決できなくても、《話題として許される》だけで、どれほど助かるか。
斎藤環氏とのやり取りで彼が怒り出したのも、まさに私が、《主観性と関係性をどうするか、どうやっているか》を話題にしたときでした(参照)。――つまりこれは、多くの人のアリバイ感情を刺激する、人を怒らせる話題なのです。このままでは、議論ができません。


ひきこもり状態を解きほぐすには、みずからの技法的加担に直面し、そこで組み替える作業を必要とします。そしてこれは、作業として孤立できません。孤立したら失敗する。あるスタイルを反復する集団や関係において、自分だけが変わるわけには行かないし、集団側がパターンを硬直させていては、そもそも参加を維持できません。技法をやり直そうとした者はメンバーシップを得られず、問題意識ごと遺棄されるのです。*15



発達障碍に関して

私の言動を批判する趣旨での酒井泰斗氏の発言(参照):

これはむしろ、議論の前提であり、出発点です。
私の必要とするモチーフが、制度的に承認された専門性にはあり得ない形で一貫していること、またそれによって、私が排除されているいきさつを、ご想像いただけませんか。私は、ひとつの専門性や党派性に安住できるような、わかりやすい状況にはおりません。


医師や社会学者は、発達障碍と呼ばれた思考の平板化を「脳の問題」に還元します。それを踏襲し擁護すれば、彼らのPC的アリバイは守られ、中間集団は維持できるでしょう(再生産の様式です)*16。あるいは名詞形の「当事者」で名指された側は、その名詞形に囲われるかぎり、そしてその限りにおいて、ある関係性を作ることはできる。――しかしこれでは、彼らに抑圧された論点は、ますます好都合に抑圧されます。《語りのスタイルと主観性や関係性》という論点が、いつまでたっても話題にできません。


以下のような私の問いは、馬鹿げていますか?

  • 不登校外来のが発達障碍という報告もあるようですが(参照)、そういう事例の一部は、主観性や集団の《技法》と関係していませんか。つまり、技法上の試行錯誤で、改善できる事情はありませんか。*17
  • 専門家を名乗る皆さんの言説様式は、間違った技法に加担していませんか。*18



全員の加担責任をむき出しにする技法の問いは、乱立する党派的アリバイの《あいだ》にあります。どうか少しでも、「話題にしても許される状況作り」に、協力してください。



*1:学問研究は、所属とは関係なく、「そのような主観性の技法を踏襲すること」です。それによって、同じ主観性のパターンにある関係者に合流できる。たとえば社会学者に酷い目に遭わされた者にとって、当該研究者は、「社会学の業界」という集団的な存在に守られています。トラブルがあったとき、当該研究者と同じロジックで弁護を図る支持者が出てくる。これは党派性の問題です。いわゆるヤクザでなくても、孤立者から見た党派性は、立派な組織的脅威です。

*2:「ひきこもり」と名詞化され、差別的な扱いを受けながら生きていかざるを得ず、社会保障の対象にもなりにくい引きこもり状態経験者は、ヤクザ的な手法をどこかで取り入れざるを得ないのか、という問いでもあります。つまり、ここでいう「技法上のテーマとしてのヤクザ」は、暴力団対策法の対象になるような、「○○組」と名乗る組織に限定された話ではありません。法律で定められた暴力団ではなく、「ヤクザ的な手口やスタイル」というとき、私たちは何を考えているか。たとえば、(1)正規の手続きではなく、ショートカットを使えること、(2)「上の者がクロと言えばクロ」の絶対服従と戒律、(3)水面下の即座の動員力、(4)背後の組織を匂わせる、(5)法律に詳しいが、必要なら法を犯すことを省みない行動力――などによって、《身を守り、主観性と集団のマネジメントを遂行すること》ではないでしょうか。孤立した上に迫害され、ふつうのやり方では酷い目に遭う人間にとって、「いかに身を守るか」は死活問題です。

*3:「ひきこもる人は、ヤクザの事務所に弟子入りして鍛え直してもらえばいい」という意見は、何度か聞かされています(最近では須田慎一郎氏が、あるTV番組で発言されていました)。 冗談めかしてではあるものの、(1)忘れたころに、思い出したように何度も出てくる意見であること、(2)日本ではヤクザの存在は既存社会に組み込まれているらしいこと、(3)「良い意味でのヤクザの親分みたいな人が支援者に向いてる」という意見が、支援周辺からも出ること、(4)柄谷行人氏が宮崎学法と掟と この国の捨て方 (角川文庫)』に寄せた解説(参照)と、労働問題で著名な研究者がこの本に寄せた賛辞の説得力――などからも、《ヤクザ的な団結、その主観性の技法》は、論点として避けて通れないと感じています。そして中間集団は、「作ればいい」というものではなくて、作ろうと思っても、本当にうまく行かないのです。主観的意図だけではなくて、技法が要る。

*4:生活において避けがたく生じるトラブルに対して、私たちはあまりに無力であり、また警察組織も(手続き主義に阻まれて)助けてはくれません。では孤立しがちな私たちは、どうやって身を守ればよいのでしょう。やはり宮台氏のように、ヤクザ人脈が必要なのでしょうか。――島田紳助氏は引退を余儀なくされていますし、これは、「俺にはそういう友達がいるんだぜ」と自慢して終わるような話題ではないはずです。

*5:毎日10〜数十人が流れてきていたのですが、突然ゼロになったので見に行ったら、見当たらなくなっていました。以後、一件も流れてこなくなった。

*6:私は宮台氏との面識等はまったくないのですが、当時すでに C 氏が宮台氏とのつながりを周囲に伝えていたため、「ヤクザ人脈への対処をどうするか」は、他人事ではありませんでした。

*7:福山哲郎氏のことではありませんが、関連して】→ 鈴木智彦氏の『ヤクザと原発 福島第一潜入記』を読むと、そもそも原発という巨大事業は、ヤクザの存在なしには成り立たないようです。なのにマスコミは、こうした事情については扱いません。次のようなモチーフは、誰だってある程度は直面しているのではありませんか――《この社会では、ヤクザとの関係はどこかで承認されているらしい。それを警察用語で「暴力団」と呼ぶことも含めて、二つの顔を使い分けなければならない》――重要なスキルのはずです。ものすごく話題にしにくいですが、「暗黙の」ままにしないでほしい。

*8:斎藤環氏が柄谷氏の最近の言説に絡んでいることは、とても症候的に見えます(参照)。斎藤氏は、話題としては引きこもりを論じるのですが、理論言説と主観性・中間集団の関係は、ついに扱いません。むしろそれを抑圧した形でのみ、《論じる》ことを許すのです。――私にとってこのモチーフは、トラブルの形で繰り返し一貫しています。

*9:初めてお招きいただいた実名公表イベントで、会場から「国のため、社会のために自分を捨てろ!」と叫ばれたのが、右派系からの唯一の恫喝です。以後はそもそも、接点がありません。支援者である工藤定次氏の『脱!ひきこもり』には、「民族派」を名乗る人物からの恫喝電話の体験が描かれています(参照)。

*10:わかりやすすぎる「〜べき」を反復することで、お互いのナルシシズムを確認しあうような関係性です。これは、技法論への抑圧でしかありません。

*11:社会関係資本(social capital)」は、学問の文脈としては、あくまで積極的な意味だと思います。しかし孤立した側から、《主観性の生産様式を固定的に反復する(押し付けてくる)体系》と考えると、別の意味を帯びてきます。

*12:山口昌男: 《「すぐれた人類学」というのは、自分の価値で他者をはかるのじゃなく、他者を媒介として自分をはかり直すところにあるのだ》(本多勝一との論争より、孫引き)。 相手を一方的に対象化する視線を許すなら、自分たちが実際に生きる社会性の実態は、ついに検証されない。

*13:分析的な組み換えのない《現場》は、その形において、自分たちの言葉に引きこもっています。――理論を仕事にする人たちは、理論の内容そのものに引きこもるだけでなく、《理論の現場》をどう生きるかについても、言葉をパターン化させています。

*14:関係性が、「〜であるべきだ」の表看板で維持されること。それは、そのような形で守られる既得権を固定する、関係技法のひとつです。

*15:名詞形「当事者」ポジションに居直った人も、この話題を忌避しがちです。関係の実態を問い直す技法論は、名詞形「当事者」で呼ばれた誰かの特権化を、前提にはしませんので…。

*16:私は技法の問いを、生産様式の問いに重ねています。生産様式というと、ふつうは所有や支配の歴史的制約であり、個別に工夫のしようなどないのですが(参照)、私はそれを、リアルタイムの《技法》に重ねて、問い直そうとしています。

*17:この私の疑念は、発達障碍のカテゴリ名で居場所を作ろうとする《当事者》たちによっても、困惑されがちです。「自分は○○だ」という名詞形の同一性を失いかねないと同時に、社会保障の受給権や、刑事裁判での減刑機会をも失う可能性が高く、さらには改善に向けた責任の話にもなりますので、無理もありません。――しかし《技法》という論点について、発達障碍の診断を受けながら、好意的に(あるいは可能性を感じて?)声をかけてくださった方もおられます。

*18:つまり、(1)カテゴリ還元的な専門家言説、(2)名詞形の「当事者」を擁護していればよいと思い込む規範意識――こうした発想は、技法という論点を抑圧しています。