場所を再生する分析

「分析的 - 詩的機能(fonction analytico-poétique)」 と 《新生自己 emergent self*1 に関連して、
グァタリがほかの場所でも語っている。


フェリックス・ガタリの思想圏―“横断性”から“カオスモーズ”へ

フェリックス・ガタリの思想圏―“横断性”から“カオスモーズ”へ

邦訳を参照しつつ、訳し直す努力をしてみた(引用部分については、強調は引用者)
以下、原文はいずれも「Pratiques écosophiques et restauration de la Cité subjective」(PDF)より。 邦訳によると、これはグァタリの生前最後の語り下ろしテクスト(遺稿)であり、彼が亡くなった1992年の秋に公表されている。

 幼年期専門の精神分析家/動物行動学者であるダニエル・スターン《新生自己 emergent self》と呼ぶこの主観性がつねに再生するかどうかは、私たちに懸かっている。専門家や技術官僚の干からびた無分別の発想にかわって、幼年期や詩のまなざしを奪回すること。 (邦訳 p.110 の箇所)*2
 Cette subjectivité que le psychanalyste et l’éthologue de l’enfance, Daniel Stern, appelle le « soi émergent », il nous appartient de la réengendrer constamment. Reconquérir le regard de l’enfance et de la poésie aux lieu et place de l’optique sèche et aveugle au sens de la vie de l’expert et du technocrate.

  • 語句に注目するなら、emergent には「創発」という意味があり、たとえば emergent system といえば、「創発システム」と訳される(参照)。 ここでグァタリが言っているのは、赤ん坊のことだけでなく、「成人以後にも硬直せず、おのれを組み直し続けられるか」 という話。
    • 「il nous appartient de ...」は、既存邦訳の「〜しなければならない」だと、左翼イデオロギーの標榜に終わってしまいそうで、しかしここではそういう硬直したあり方をこそ問題にしているはずなので、変えてみた。

グァタリは、

  • 詩的と呼ぶしかない分析(=「幼年期や詩のまなざし」)の生成を確保しなければ、私たちは官僚的プロセスに同化して干からびてしまう

と言っている。


「分析」というと、ふつうは「結果」だけが問われるが、グァタリはここで、論じる側じしんの蘇生を課題にしている。


つまり、場所や主観性の分節プロセスそれ自体の創発が焦点であり、
受動的とも能動的とも言いがたい、 いわば「受動的に生じてしまう内発的な分節」が必要だが*3、私たちの社会生活にあっては、それが難しい。

 かくして、主観性は化石化の危機にさらされている。 主観性は差異や意外性、特異な出来事といったものへの嗜好を喪失しつつある。テレビ放映されるさまざまな競技、あるいはスポーツやバラエティ番組、政治活動などにおける《スター・システム》が、神経を弛緩させる麻薬のように作用し、主観性を不安から守るのだが、それは代償として、主観性の幼児化や、主観性の責任解除をともなう。 (邦訳 p.108)
 La subjectivité se trouve ainsi menacée de pétrification. Elle perd le goût de la différence, de l’imprévu, de l’événement singulier. Les jeux télévisés, le star system dans le sport, les variétés, la vie politique, agissent sur elle comme des drogues neuroleptiques qui la prémunissent contre l’angoisse au prix de son infantilisation, de sa dé-responsabilisation.



ここで言われている「幼児化(infantilisation)」は、上で語られた「幼年期のまなざし(regard de l’enfance)」の対極にある。

    • 「幼児化」は、権威ぶった順応主義、パターン化した現実処理などを意味し、その場で責任を引き受け直そうとする「幼年期のまなざし」をつぶしてしまう。
    • 主観性の「幼児化=化石化」は、ひきこもりや発達障碍と関わるように見える。




この議論の必要性を認めた上で、残る疑問

「幼年期や詩のまなざし」は、とりあえずは個人的なつぶやきのように成立するしかない。
しかし、では合意形成はどうなるのか?


グァタリは随所で、各人の分析が独自の生成を遂げる「特異化(singularisation)」を語るが、各人が本当にオリジナルに特異化すれば、合意形成はない。
そもそも DSM は、フロイト的・精神病理学的解釈の恣意性を回避し、関係各機関の意思疎通をしやすくするために作られたはずだ。臨床の硬直を避けるには人文的問題意識がやはり必要でも、意思疎通や合意形成の問題はそのまま残ってしまう。


実際のところ、多くの人が自分なりの「分析」を抱えているが、それは単に利己的な計算か、さもなくば自分の立場を悪くするようなものでしかない*4。 そこで必要なのは、利己的な野心を排除し、秘めた分析を口にできるアーキテクチャや手続き的環境を整備することであって、単に規範的に「幼年期や詩のまなざし」を擁護しても、絵に描いた餅になる*5



考えてみれば、本当にその場を再生できるような分析は、耳に優しいどころか、trauma 的と言い得るほどに耐え難い内容を含むかもしれない(現に含むだろう)。 だとすれば、精神分析とはまた別の、「詩的まなざしの技法」を考えなければ、内ゲバを強めるだけになる。


そもそも、単なる科学に還元できない精神医学は、他科以上に党派性の問題を抱えている。 これは精神医学にとって、二次的な問題ではない。 関係の葛藤を扱わざるを得ない精神医学は、おのれ自身の党派性をどうマネジメントするのか――この問いは、精神科臨床の核心にある。

    • ドゥルーズ/ガタリの現在』掲載の論考 《いつも「新しい」精神医療のために》(三脇康生氏)は、現場に鮮度をもたらす分析の必要を、「べき論」でのみ語っているように見える。 しかし、グァタリが死ぬまで奉職したラボルド病院が、設立から50年以上を経ていまだに「特権的な位置を占めているだけ」という松本雅彦氏の指摘*6は、無視できない。 問題意識が重要であればあるほど、技術的な開発が急がれる。




*1:ダニエル・スターンの 《新生自己 emergent self》 については、*9を参照。

*2:上記邦訳の同じ箇所: 「子どもを対象とする精神分析家であり民族学者でもあるダニエル・スターンが〈現れ出つつある自己〉と呼ぶこの主観性を、われわれは絶えず生み出しつづけねばならないのだ。 専門家やテクノクラートの干からびた光明のない視点に取って代えて幼年期や詩の視線を奪回すること。」

*3:分析それ自体の生成と、メルロ=ポンティが「制度化」と呼んでいたもの(参照)は、単に重ねられるだろうか。 またそもそも「制度」というかぎりは、集団的意思決定の問題が避けられないはずだ。 なにしろ「制度を変える」というのは、まさしく権力の振る舞いだから。

*4:秘めた分析はそれなりに抱えている、しかしそれを口にすれば、ケンカになってしまう。ならば基本的には、泣き寝入りしかない。 そして、最初は再帰的に選びとられた順応も、いずれは方法意識を失って、単なる硬直に化けてしまう(「発達障碍」の前景化?)。

*5:現に日本では、グァタリ本人の名前が「スター・システム」の一翼を担い、「神経を弛緩させる麻薬のように作用し、主観性を不安から守」ってきた。

*6:医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』p.39