技法に関するメモ

書籍『組立掲載の拙稿「主体化の失敗から、触媒としての生成へ」(p.92)より:

 私たちはこれを、《決定》の制作過程(decision-making)に生じる技法の問題として、検討できるだろう。つまり、主観性や集団の危機は、作品としての decision が、うまく作れないことにある。

主観性や集団そのものを制作過程ととらえることで、《技法》の問題が焦点になる。
《正義》 《真理》 《自己》 が、ベタにそれ自体として研究されるというより、つくるという営みの要因となる。
社会思想や哲学・精神分析の伝統的諸概念も、そこで考え直すことになる。

    • 精神分析の学会によるラカンへの破門は、直接には「短時間セッション」という、技法上の問題だった。というか要するに、技法こそが思想を表す。 「技法なんか要らない」というのも、そうやって生きられる技法上のスタイルと言える(参照)。
    • 晩年のフーコーは、主体化と関係性の技法論をやっていたと言えないか。*1
    • ドゥルーズガタリにおいて、分裂や délire は、診断の《結果》というより、その診断そのものを可能にする《技法》のレベルにあるように見える(参照)。


技法の特異性?

フロイトは、「分析医に対する分析治療上の注意」(1912年)という小論で、「技法は各人なりにやるしかない」という意味のことを言っており、これをラカンが『エクリ』で引用している。資料的に引用しておく(強調は引用者)。

  aber ich muß ausdrücklich sagen, diese Technik hat sich als die einzig zweckmäßige für meine Individualität ergeben; ich wage es nicht in Abrede zu stellen, daß eine ganz anders konstituierte ärztliche Persönlichkeit dazu gedrängt werden kann, eine andere Einstellung gegen den Kranken und gegen die zu lösende Aufgabe zu bevorzugen.“ (フロイトの原文)

 Mais je dois dire expressément que cette technique n’a été obtenue que comme étant la seule appropriée pour ma personnalité ; je ne me hasarderais pas à contester qu’une personnalité médicale constituée tout autrement pût être amenée à préférer des dispositions*2 autres à l’endroit des malades et du problème à résoudre. (ラカンによる仏訳, "Écrits"p.362)

 I must however make it clear that what I am asserting is that technique is the only one suited to my individuality; I do not venture to deny that a physician quite differently constituted might find himself driven to adopt a different attitude to his patients and to the task before him. (Lacan『Écrits』の英訳版"Ecrits: The First Complete Edition in English"p.300)

 しかし私は、この技法が、ただ個人に関する限りで目的にかなったものだったと言うべきであるという点を明らかにしておかなければならない。私とは全く違った素質を持つ医者は、患者に対しても解決されるべき問題に対しても、これとは異なった立場を取ろうとするかもしれないが、このような立場をあえて否定しようとは思わない。 (『フロイト著作集 9 技法・症例篇』 p.78)

 しかし私はこの技法が、ただ私の人格にとってのみふさわしいものとして得られたのだ、ということをはっきり述べておかなくてはならない。私と全然違った体質の人格をもつ医師が、病者に対しても、解決しなくてはならない問題に関しても、別の構えを選ぶように導かれたとしても私はあえて異議を唱えようとは思わない。 ラカンによる仏訳を和訳している邦訳『エクリ 2』 p.50)



《技法は各人なりにやるしかない》というのは、論点としていろいろ含み得る。
工夫もなしに好きにやればいい、ではないわけだし。



*1:自己のテクノロジー―フーコー・セミナーの記録 (岩波現代文庫)』、『ミシェル・フーコー講義集成〈11〉主体の解釈学 (コレージュ・ド・フランス講義1981-82)』、『自己と他者の統治 コレージュ・ド・フランス講義1982-1983 ミシェル・フーコー講義集成XII

*2:ラカンは「Einstellung」に「disposition」を充ててますね。 《技法》という観点から、以下の本を読み直していました。萱野稔人氏と染谷昌義氏の対談では、ハイデガーの技術論(Gestell)との関係で disposition が扱われています。

ディスポジション:配置としての世界―哲学、倫理、生態心理学からアート、建築まで、領域横断的に世界を捉える方法の創出に向けて

ディスポジション:配置としての世界―哲学、倫理、生態心理学からアート、建築まで、領域横断的に世界を捉える方法の創出に向けて

cf.組立、配置、エコノミー、arrangement(togetter)