《社会性》の制作過程

ここ数年の私は、大きく次のことを話題にしている。

  • 人間を「ひきこもり」「当事者」などと名詞形で語るな(参照
  • 関係責任において*1、起きたことを素材化する(参照
  • (a)形式的禁止と (b)再帰的くみ替え のくり返し(参照

これらはすべて、主観性*2と中間集団の処方箋であり、
言葉を替えれば、《社会性》の新しい提案となっている。


主観性の方針は、同時に中間集団の方針となっている。 主観性と中間集団の作法が切り離せないことに気づかないまま、「仲間を作ろう」などと言っても、かえって害をなす*3。 成功事例を示すのではなく、制作過程に注目しなければ。――硬直した制作過程に、何が起こっているのか。そこにどういう方法論を持ちこめば良いか。


完成形を論評する批評ではなく、制作過程を共有し、そこで技法や手続きを編み出す批評が要る。


具体的に言えば、私は引きこもりを語る人たちの「語り方」に怒りを持っている。 そこには「一般人」「専門家」「ライター」等々だけでなく、自分を「当事者」として語る人*4も含まれる。 苦しむ人の語り方は、臨床像を支える制作過程となっている。 そこに介入できない臨床言語は、ただ完成形にレッテルを貼るだけで、それ自体が制作過程に悪影響を及ぼす。



【追記】

名詞形で語られる《社会性》で、私たちは何を前提にしているか。
そこにはどんな関係作法と、それゆえの労働過程が織り込まれているか。
社会性を生きることが、何を余儀なくされているか。そこにどんな提案があり得るか。



*1:【12月9日付記】: 「関係当事者として」と書いていたのですが、「関係責任において」に書き替えました。 ▼「関係当事者」という名詞形は、語りのふるまいそのものを動詞形(再帰的問い直し)に巻き込むための形式的禁止と言えます。その名詞形は、最初から動詞形に巻き込むことを目論んでいる。いっぽう、単に「当事者さん」としてしまうと、関係責任の再検証を伴わない特別扱いが始まってしまいます。 ▼ひきこもるという状態像においては、主観性と小集団(家族や職場)の編成を同時に問い直す必要に迫られます。単に名詞形で特別あつかいするような役割理論は、うまく機能しません。間違った方針の役割理論は、私たちの主観性と関係性を苦しめる直接の原因になります。 【私たちの主観性と関係性を支配する、意識されないままの信仰≒理論が機能している。その信仰≒理論は、名詞形うんぬんの語の使い方に表れる。】

*2:ガタリが「subjectivité」という語で執拗に論じていたテーマ(参照)。 これは単にインテリごっこなのではなく、臨床的な(ということは政治的な)趣旨をもつ論題だ。

*3:ダメな自分に対する自意識を強化するだけ

*4:彼らはたいてい、自分や誰かを名詞形に変えなければ論じられない。 「当事者」「被害者」「○○性人格障害」など。