『社会に復帰し続ける、その参加の制作過程』という箇所、ことに『復帰し続ける』という表現に、上山さんのお考えのユニーク性が感じ取れます。
こういうディテールに気づいてくださるのが、本当にうれしいです。
(このあたりの話は、本当に全く通じないのです)
15日は、兵庫県立美術館に、「ピカソとクレーの生きた時代」展に行ってきました。
個人的に、ジョルジュ・ブラック、 マックス・ベックマン、 アンドレ・ドランが発見でした。
永瀬さんの影響もあってか、「絵を観る」のが楽しくなってきています…。
なんというか、《動き》が出てきている感じです。
わたし自身が臨床を生きているというか。
知人から、「絵を見ることは、文法の発明のされかたの発見だ」という考えを教わりました。 そこで、《制度》という批評概念にあらためて出会っています。
柳澤田実氏らの『ディスポジション:配置としての世界―哲学、倫理、生態心理学からアート、建築まで、領域横断的に世界を捉える方法の創出に向けて』(現代企画室)、出版時から気になっています。同時にここでは「うまくいく」ことが前提的によしとされている可能性がないか(うまくいく、という言葉の内実は検証されていないのではないか)、という印象を持っています。
なるほど。
この問題意識は、
- うまくいって見えるものをさらに素材化する姿勢がない(完成形のナルシシズム)
- 相手の制作過程への介入というかたちで、自分の制作過程も試練=批評に晒される(批評と実作の、プロセス相互性)という主題がない
- 結果物をメタに論じるだけで、論じる作業は、生産態勢として固定されている
――などと言えるでしょうか。
正当化のスタンスが、暗黙の前提のままになっている。
トラブルそれ自体を封印してしまうのはよくないことで、もしトラブルが起きたのなら、そこでこそ前向きな分析が必要になると思います。いわば「うまくいかなかった」時にこそ、大切な〈素材〉がはっきりするのではないでしょうか。
もう、まったくこれこそが主題なのです!
トラブルにおいてこそ、主題化すべきことが露呈する。というか、主題化のあり方が変わるわけです。私は自分について、こういう「問題化のスタイル」そのものが反感を買っていると感じています。
単なる相対主義や「スキゾの放置」ではなく、また、あらかじめ「○○すべきだ」という正義を設定するのでもなく、いわば正当化の「労働方針」こそが素材化される。
これは、わたしが臨床や思想を考えるときの核心です。とはいえ、マーケットをふくむ大きな「正当化の流れ」があるときに、どう抵抗すればいいのか…。
うまくいっているときは、素材が壁に塗り込められている。「うまくいっていることにする」ために、いろんなことが抑圧されている。素材化すると、うまくいったことにしておきたい人たちの労働のナルシシズムに抵触するので、怒りを買うことになる。
トラブルでは、責任を個人に還元するのではなく、《状況を論じる》必要がありますが、それは単に「社会のせいにする」のでもなくて、私たち一人ひとりの姿勢も、《状況の一部》であるはずです。(ほとんどのコミュニティは、自分たちの生産態勢に無頓着なまま論じている。)
生産態勢を固定することは、責任の所在を問い詰めるロジックを固定することです。ルーチンワークが崩れれば、「お前がミスした」になる。でも、その問い詰めじたいが、生産態勢を固定しなければあり得ない問い詰めです。
それゆえ「生産態勢をプロセスとして問うこと」は、そのまま責任論になります。(生産過程論は、法思想や倫理を巻き込む。)
・・・・ここで私たちが交わしているような議論は、孤立しているのでしょうか?
現代思想系の何人かの論者を思いつくのですが、永瀬さんとさせていただいているような議論は、ほとんど見当たらないと感じているのですが…。機会がありましたら、ご教示いただければ幸いです。