4月7日 永瀬→上山

 今回、上山さんに頂いたメールが重要な内容であると感じています。
 頂いたメールで

 「何が受け入れられ、何が排除されるのか」というのは、とても政治的で、その判断のあり方について、分析が必要です。――分析の結果がいいか悪いかの前に、「分析してもかまわない」という雰囲気すらない。永瀬さんが私の議論に興味を向けてくださったのは、分析が禁じられた状況への苛立ちとかかわるのではないでしょうか。逆にいうと、その分析のプロセスでしかご一緒できない。(それが「組立」というご企画と理解しました。)

 「それぞれのジャンルで、自分のいる場所を分析してみる。その分析どうしが出会う」というのが、私が理解する制度分析で、永瀬さんは、その貴重な機会を与えてくださったと感じています。

 この箇所がとても大切に思えました。
 まず端的に言って、私自身が上山さんのお考えを不十分にしか咀嚼しておらず、その結果私が上山さんから影響をうけた(という言い方をお許しください)「組立」と、上山さんご自身のおっしゃる「制度分析」は異なる−しかもそれは上山さんにとって最も重要なポイントを外した差異でもありましょう。


 「異なるものが接点を持つ」という言い方には危うさが在ります。いわばそこには、曖昧で不十分な「制度分析」が、半ば“アリバイ工作”的に入り込む可能性がある。
 私自身、今後上山さんのお考えを十分理解した上で、自分の考えを組立てる過程が必要だと感じております(そのような過程を経て初めて高いレベルでの「異なるものが接点を持つ」ことが可能でしょう)。


 また、『「社会に復帰し続ける、その参加の制作過程」』という箇所、ことに『復帰し続ける』という表現に、上山さんのお考えのユニーク性が感じ取れます。「復帰」それじたいの目的化ではない、「復帰」していても「復帰」できなくとも、どちらにせよいわば絶え間ない検証が必要なのでしょう。「復帰」それ自体の内実が検討されなければならない。


 まったく異なる文脈の話ですが、昨年『ディスポジション』という本が出ている事をご存知でしょうか。キャッチコピーが『明晰判明な主観認識にもとづく世界観の専横を脱し、より「うまくいく」世界の可能性を探るための、次代を担う理論家/実践家たちによる討議と思考の記録。』というものでした。
 私は実はこの本を部分的にしか読んでいないのですが(平倉圭さんという方のマチス論が興味深いです)、上山さんのお考えとどこか交差する視点なのかな、という感覚と、同時にここでは「うまくいく」ことが前提的によしとされている可能性がないか(うまくいく、という言葉の内実は検証されていないのではないか)、という印象を持っています。


 トラブル、というのは勿論ネガティブな事態でしょうし、それが深刻なものになる危険性は意識する必要がありましょうが、ポジティブに見れば、それはいわば複数の交渉主体の「交渉現場の顕現」でもありうると思えます。もっともクリティカルな「交渉」が必要となる場面で、そこでこそ初めてお互いの「譲れない差異」が露呈する。
 トラブルそれ自体を封印してしまうのはよくないことで、もしトラブルが起きたのなら、そこでこそ前向きな分析が必要になると思います。いわば「うまくいかなかった」時にこそ、大切な〈素材〉がはっきりするのではないでしょうか。