洗脳されたまま反復する日常

社会参加に関して、実務と理論がある。 ただしひきこもる人も、その状態のままですでに実務に参加している(参加していなければ生きていない)。 ところが、意識だけがその参加状況を黙殺していたら…?
これは、ひきこもる人だけの問題ではない。 「参加している状況」は、なかなか反省的に吟味されない。


「その方針だと、破滅するしかないし、周囲が大変迷惑している(少なくともそう主張している)」、にもかかわらず本人が主観的態勢を変えることができない、変えるつもりもないらしい、また周囲はそれを変える能力を持っていない。 本人はあるカルト的態勢にあり、周囲はそれを軌道修正する能力をもたない。


↑この本掲載の渡邊太氏の論考*1は、「ひきこもる人への介入」を、「カルト信者への介入」と比較しつつ検討している。


渡邊氏は、2004年12月に以下の指摘をされているのだが、これは私がガタリに興味をもつときの重要な参照項になった(強調は私)*2

 そんで、ガタリのいう分裂分析というのは、つまるところ脱洗脳ということになる*3

    • 【引用】: 《くり返しますが、分裂性分析をすることは、あれかこれかというように二者択一的に鋳型(自己モデル)をつくりだすことではありません。次元を変えて鋳型をつくりなおす試みなのです。最終的に今の鋳型に、なぜ至りついたのか理解しようと努力するのです。「あなたがはまっているあなたのその鋳型の調子はどうですか?」うまく機能していない? どうだか解りませんが、ならば一緒にやってみますか! 他の鋳型を接ぎ木できるか試してみることもできますよ。良いか悪いか、まあ、やってみましょう。標準型の鋳型なんて問題ではありませんよ。この場合、真の基準は、鋳型の次元の変化が、自己自身の変化になること、お好みなら鋳型の自己鋳造といっても良いですが、それになることなのです。》 (「『制度論』革命に向けて」ガタリ他『精神の管理社会をどう超えるか?―制度論的精神療法の現場から松籟社、45頁)

 「標準型の鋳型なんて問題ではありませんよ」という言葉がきわめて重要な意味をもつ社会的状況というのは、たくさんある。それで、そこをいかにして主観性の生産につなげていくか、という問題(再洗脳ではないかたちで)。ここで、ガタリは「地図」の作成という表現を持ち出す。確かに、地図を描くことは、何かの始まりを呼び出す感覚がある。



脱洗脳のためにどういう方策を採るのか、そもそも何をもって脱洗脳とみなすのかに、思想的選択の根幹がある。 ▼「オタクになれ」という斎藤環や、「右翼になれ(感染しろ)」という宮台真司は、いわば《洗脳されること》を積極的な方法論として推奨している。


洗脳されるというのは、ルーチンの悪しき固定が忘却されること。 なにも宗教団体だけに生じるのではなく、私たちの日常は、つねにそういう状態にはまり込んでしまう*4。 さらに言うなら、「このルーチンで良いのか」という問いは、この瞬間にもリアルタイムに突きつけられている。 「自分の従っている鋳型」を検証し、組み直すこと。 参加中の《現在》の洗脳され具合を、問い直すこと。――今の私は、ガタリのいう「微分」を、そのように理解している。 そういう「微分」を常にやらないと、与えられた、すでに乗ってしまった運動の傾向に、そのまま流されていってしまう。


「地図を描く」といっても、描く自分だけがメタに居座るのではどうしようもない*5。 地図を描こうとすると、自分はどこにいるのか、どういう経緯でそこにいるのか、検証してしまう。 自分はそもそも、どういう態勢で参加し、周囲の《つながり》を生きているのか。 いつの間にか起動してしまう検証を抑圧することによってしか、その場の関係ルーチンを固定することはできない。


ドゥルーズ/ガタリのいう欲望や無意識は、いつの間にか始まってしまう「検証という生産」のことだと思う。 この生産を忘却・抑圧し、ルーチンと一体化するところに「洗脳された状態」がある*6。 ▼無意識の話を、「内に秘めた欲望」みたいな個人化された神話ではなく、「ルーチンを変えざるを得なくなる」みたいな、生産過程の話にすること。

洗脳の問題を、いわゆる「カルト」だけに限定すると、話が見えなくなる。 「自分カルト」としてのひきこもりを、内側から検討することもできない。 なぜなら、論じる側じしんがカルトだからだ。 そもそもいかなるコミュニティも、カルト的な排除のゲームを繰り返している。



「考える」という事業を、どう位置づけ、分類するか。

    • 思考の課題を、洗脳(制度化)と脱洗脳(内在的分析と組み換え)の往復とみなす。
    • 物理や数学のように、厳密な方針を維持して苦しんで、初めて成果を出せるものがある。 それはルーチンと呼べるかもしれないが、その事業趣旨そのものを批判するのはバカげている。(とはいえ、物理と数学の方法で人間の現象すべてを説明し始めると変だが。)
    • 人々の日常会話は、よく考えもしないルーチンを反復しているにすぎない。 ハイデガーのいう「世人 Das Man」、「空談 Gerede」。 とはいえ「ハイデガーを論じること」は、それ自体がすぐに空談と化す。 ハイデガーを論じていれば空談ではなくなる、わけではない。
    • 「自分は洗脳なんかされていない」と言い張る人は、特定宗教に入信していなくとも、反宗教を主張していても、基本的にはアウト。 むしろ、「すでに全員が洗脳されている、それを前提にした上でどうするか」という発想が要る。




*1:p.145〜p.186、「脱落復帰=リスタートに向けて 〜引きこもりとカルト」

*2:個人的な与太話になるが、1980年代後半にフランス現代思想に興味を向けた私にとって、ガタリは最も軽蔑する論じ手だった。 「安易な左翼運動のイデオロギーを標榜して、そのくせ言っていることは意味不明」。

*3:「洗脳という概念は、1950年代のアメリカで、共産主義の脅威という社会的文脈のなかで一般的に認知され、その後、1960年代以降のカルト宗教現象を説明するために転用された。1980年代以降、洗脳概念に代わって、心理学的により洗練されたマインド・コントロール概念が、若者のカルト入信を説明するために発明された」(『カルトとスピリチュアリティ―現代日本における「救い」と「癒し」のゆくえ (叢書・現代社会のフロンティア)』p.178、渡邊太氏による注)。 和英辞書を引くと、「洗脳する=brainwash」となっている。

*4:たとえば私は、男性のネクタイが、宗教団体の儀式服のように見えていたことがある。 それを異様と思わなくなった時点で、私はすでに儀式的反復に取り込まれている。

*5:それでは「地図を描くこと」自体が、メタ言説の生産態勢として固定されてしまう。 洗脳の問題は、主観性の生産態勢の固定にある。 いくらメタに論じていたって、それ自体として固定されてはどうしようもない。

*6:検証が始まっているにもかかわらず、それをなかったことにする(そもそも気付かない)こと。