4月17日 永瀬→上山

 もっと枠組みをゆるめてしまう、つまり私が把握できている程度に上山さんのお考えを単純化してしまえば、私には世界中の美術作品、あるいは美術史そのものが、一種の制度分析あるいは各作家の歴史や環境との交渉過程の log に見えて来ます。
 このlogという言い方は濱野智史さんの議論とも絡むものです(参照)。
 自分に引きつけてお話するのをお許しいただけば、私の作品は、キャンバスや絵の具といったマテリアルあるいは美術史・同時代の美術状況と私(という主体)の、道具を仲立ちにした「交渉」の痕跡の集積であり一種の議事録として考えています(こういう視点だと、工芸的に表面が仕上げられて「交渉過程」が隠蔽された作品が縁遠くなります)。


 …ここまで拡散させてしまうと上山さんのお考えから離れ過ぎかもしれません。
 しかし、たとえば「作家活動が上手くいく(作品が市場にのる)/上手くいかない(作品が流通しない)」という状況を当事者として分析することが上山さんの問題式とかさなる、とするなら、そこから「作品が上手くいっている(良い絵になっている)/上手くいかない(良い絵になっていない)」という制作現場の分析までは、ほんの一歩だと思えます。


 この時、問題になるのは、そこでの「良い/悪い」という価値判断はどのような文脈、あるいは根拠によって支えられているのか、という分析となります。美術館や市場が「良い/悪い」とジャッジしている根拠や理由を問うように、自分が自分の作品を「良くなっている/悪くなっている」と制作過程で判断する、その根拠や理由が問われます。
 一般に、その根拠や理由は、大文字の「美術史」に求められる。とするなら、今度は「大文字の美術史の根拠は何か」という分析が必然的に発生します。


 面白い話があって、戦後美術批評の中心的存在であるクレメント・グリーンバーグが「あなたがジャクソン・ポロックを見いだした」と言われたときの答えが「いや、マチスが良いとされている場所なら、ポロックはいずれ誰かが見いだしたのだ」というような答え方をしています。
 つまり、マチスが素晴らしいとされる美術史構造がポロックをよしとしたので、私が見いだすとかそういうことはない、という返事ですね。
 この話の興味深いところは「ではマチスを良くない、とする美術史を考えたらどうなるか」という設定が可能になる事です。
 こうして美術史、ひいては各現場の「良い/悪い」の判断は根拠レスになり、従って美術状況全体がアナーキーになっていく。


 …と、まさに一通前の私のメールで書いたような、上山さんのお考えの勝手な援用を実演してしまったのですが、いずれにせよ「美術」という、価値の闘争のフィールドに上山さんが興味を持って近づいていかれるのは、私から見ればごく必然的に思えますし、上山さんご自身に内在した動機ではないかと想像します。 「絵を見ることは、文法の発明のされかたの発見だ」というお知り合いのお考えは、私も大変に共感します。


 『ディスポジション』に関しては、なにぶん通読もしていませんので、一度ゆっくり読んでみようと思います。
 こういった試みが、上山さんの文脈とは無関係に、しかし同時代にどこかクロスする形で出てくるのは、上山さんのお考えのアクチュアリティの証拠のようにも思えますね(しかし、それがまさに「上手く流通するか/しないか」の差異、その制度性こそ分析されるべきですが。もちろん、上手く流通するのが良くない/流通しないのが良くない、という話ではない。反復になりますが、それぞれに分析され続けなければならない)。


 トラブルの分析にこそ主題がある、というお話は、もっと生活の実感として受け止められました。
 私は都内の小さな会社で賃労働をしていますが、「生産態勢を固定することは、責任の所在を問い詰めるロジックを固定することです。」という上山さんのお話はひりひりとした毎日の実感としてあります。
 これは、むしろ自分がかなりの程度労働現場で「上手くやってる」からこその怖さなんです。
 なぜ上手くやれているからといえば、まさに『生産態勢を固定』しているからです。それは外的な制度の問題ではない。私の内的な精神がルーチンワークの生産過程の固定形態としてある。



価値判断へのアナキズムがあるからと言って、私たちは臨床性について、「なんでもあり」なんて言えるでしょうか? 身体が絡んだとたん、古色蒼然たる近代主義が召喚され、「まじめさ」以外許されなくなる。 ポストモダン的な「スキゾ」なんて、表面的なお遊びでしかなかった――それどころか、「なんでもあり」の流行は、バックラッシュ的に昨今の「まじめさ」信仰を強化しているようにも見える。 不況による経済的逼迫(ひっぱく)は、「まじめさ」へのオブセッションをますます強化しています。

《社会的正当性》を、どう調達するのか。 これは、経済的切実さと切っても切れません。 相手のやっていることへの介入は、そういうものへの基盤まで壊しかねないので、本当にバトルになる。